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秘教治療

アリス・ベイリーの秘教治療を紹介しつつ、ヨガの先生の教えを回想する。霊治療、光線エネルギーのまったく新しい知識を織り込んでいきます。エーテルについての知識を広めることを目的としています。

私の体験談

私が19歳のとき、こんな体験をした。
今は見かけることがないが、昔の村にはあちこちに半鐘塔が作ってあって、火事があったときには人がそこに上って半鐘を打ち鳴らして、近所の人々に火事を知らせていた。私は、その塔の上から飛び降りて自殺しようと考えた。なぜそのようにしたのかと言えば、恥ずかしながら、恋わずらいだ。そして、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に影響を受けていた。この小説では、主人公はピストル自殺をする。
遺書めいたものを書き終えた私は、夜明け前に半鐘塔に登って、そこから飛び降りようとした。柵を乗り越えようと足をかけると、近くの森が闇夜の中、渦を描いてエネルギーを発散しているのが目に飛び込んできた。まだ日の出までには時間があり周辺は暗闇だったが、そのときを境に目の前の闇がまるで墨をとかすように、暗闇がスーと溶けて、灰色の薄闇に変わり、そして眼下に広がる田んぼの稲も、ものすごい渦を描いて、エネルギーを発散している様子が見えた。
「この光景は何だろう?」と思った瞬間、自殺しようという考えが消えてなくなり、「私が目にしたものは、何だろう? これを突き止めなければならない」という、圧倒する考えに支配された。私は、柵にかけようとした足を元にもどして、すぐに半鐘塔から降りた。
後年、先生からエーテルのお話を聞き、「エーテル体」の冊子を読んで、私が目撃したものは、エーテルであったのだ、と思った。
ゴッホの「糸杉」という題名の絵がある。あの絵には、糸杉のまわりに渦が描かれ、太陽も二つ描かれている。ゴッホもたぶんエーテルを目撃して描いたのだと思った。
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  1. 2010/09/20(月) 01:13:59|
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一億円の話し

「私の話は、一億円です」「私の話しを聞くときは、眉につばをつけて聞いてくださいよ」というのが、先生のいつもの前置きの言葉であった。先生が治療代を決して請求されることはなかったが、まるっきりただで治療されているのか私は疑問を抱いて、聞いてみた。「先生の治療は、お金をいただくことはないのですか?」と。先生は答えられた。「医師の資格を持たない者は、医療行為を行ってはならない」「だが、助けを求めてやってきたものに対しては、全力を尽くして、助けねばならない」「助かれば、人は何がしかのお礼をせずにはおられない」。
そして、こんな話しをされた。一宮に住むある人が、何の病気であったか今は覚えていないが、ひどい病気にかかって、死にかかった。その人も貧しい暮らしをしていた。医者にかかることができないほどに金銭に困っていた。それで、先生に助けを求めた。先生は、治療を行い、その人は回復した。その後、先生宅にお礼にこられたが、先生の質素な生活ぶりをみて、こう言われた。「何のお礼もできませんが、あんたが食べる分ぐらいのお米はわしがなんとかする」と言って、 毎年30キロの玄米を届けるようになったと。噂を聞いて、治療をお願いにこられる人が増えてきた。先生はこんな話しもされた。「ガンを患う人で、私がわずかな礼で治療を行うと人から聞いて訪ねてくる人がいた。そういう人にはこう尋ねる。『あなたの命はおいくらですか?』黙って答えない。『お医者さんにいくら払うのですか?』『50万ほど』『それは大変ですね』『私の話しは一億円です。一億円持ってきましたか?』『いえ、持ってきていません』。
しばらく後に、もしガンが治れば、それ相応のお礼はさせていただくとその人はきっと言う。『では、今日はまけとく。あんたが気にすむ金額でいい』と答える。
  1. 2010/09/19(日) 00:47:33|
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夏の思い出(3)

浜にでると、若い人たちは、花火を買うために、店のほうに歩を向けたが、先生と私はみなについてはいかず、若い人たちがもどってくるのを待った。やがて、花火を手にした若い人たちが水辺に近づいて行ったが、先生は別の方向に進んだ。私はどちらについて行くべきか少し考えて、先生の後からそっとついていくことにした。先生は、水辺からやや離れたところに、浅い穴をほって、そこにどっかりと腰を下ろし、安楽座法で座って瞑想状態に入られた。私はそばに行ってはならないような気がしたので、少し離れて、その様子をうかがっていた。しばらく後に先生は立ち上がって、若い人たちといっしょになった。私もすぐにいっしょになった。
海水浴からもどって、先生のお宅を訪ねたとき、あの時の瞑想の話になった。そして、あの時、先生が昔兵庫県の三木市にいるときに治療したことのある人からの依頼を受けて、遠隔治療を行ったと言われた。私はそのときに初めて、遠隔治療ということを知った。あんなことで、病気が癒されるなら、これほど楽な商売はないと思った。そして、秘かに治療の技術を身につけたいと思った。
私は口に出して、 治療のテクニックを習得したいとは、言わなかったが、たぶん私の思いは先生に伝わっていた。先生は、人の隠れた思いも、かすかに考えたこともすべてご存知だった。私は以前よりも足しげく先生のお宅にお邪魔するようになった。そんな私を先生は歓迎してくださった。
  1. 2010/09/18(土) 02:27:01|
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夏の思い出(2)

翌日は、釣りに疲れたのか、釣りのことは誰も何も言わなかった。朝から皆海水浴を楽しんだ。昼食のとき、先生は自分のかばんから割り箸を取り出し、それを旅館が用意した割り箸と交換した。その割り箸の袋の表にある言葉が書かれていた:「想念はエーテルを支配する」
「エーテル」という言葉は、以前に先生から「エーテル体」という小冊子を渡されていて読んでいたので、おぼろげながら、私が昔神秘体験をしたときに目にしたものがエーテルを目撃したのではないかと想像していた。だが、「エーテル体」という小冊子に書かれている内容は、正直なところ、チンプンカンプンであった。
先生は、食事の前 に少し話しをされた。治療を目指すものは、エーテルについての理解は欠かすことができないこと、病気を作るエネルギーは人間のエーテルを経由して肉体に伝えられていること、そしてそのエーテルは想念によってコントロールすることができることなどを話された。その後で私たちは、昼食をとった。
昼食後の休憩を取ったのち、午後は海水浴を楽しんだ。夕食時には、コップ一杯ずつのビールをいただいた。宿の食事は、新鮮な魚のさしみ、フライ、煮付けなどが必ずでる。とてもおいしかった。ほろ酔い気分でゆったりしていると、誰かが浜に出て花火をやろうと提案した。そのとき、留守宅にいたおばちゃんから先生に電話がかかってきた。先生は、耳が遠いのか大きな声をあげて、何度も聞き返していた。どうやら、緊急の治療をお願いする電話が先生宅にかかってきたようである。おばちゃんは、民宿にそれを伝えるために電話をかけてきたのだった。先生は、「よし分かった」と言われた。そして、おばちゃんに、相手の人に電話で伝えるべきことを教えて電話を切った。
  1. 2010/09/17(金) 04:46:48|
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夏の思い出(1)

夏の思い出を語ろう。私が先生宅に月1回のペースで訪れるようになってから、1年後のことであるが、先生のところでヨガを学ぶ若い人たち10人ほどが先生といっしょに兵庫県の香住というところへ海水浴にいった。日本海のひなびた海水浴場だった。先生は海辺の育ちで、若い頃は漁師にあこがれていたぐらいだから、釣りの話に余念がなかった。明朝早く、釣り船をチャーターして釣りに出かけるために、同乗者を募りたいので、ヨガの話よりも釣りのおもしろさをしきりに話された。私はどちらかというと、釣りにはあまり興味をもたなかった。他の人たちも釣りには興味なさそうであった。
春日井市に住む友人が先生といっしょに近海にある貝殻島へ釣りをしにいくと言い出したので、結局は全員が手漕ぎボートを借りて、貝殻島へ釣りにいくことになった。というわけで、2日目は海水浴よりも、釣りをして1日を過ごした。大きな岩の上に登ると、すぐ下にベラやキスがうようよ泳いでいる。入れ食いだと思った。釣りにはあまり興味のなかった私でも俄然やる気が出てきた。えさのゴカイをつけて仕掛けをたらすと、最初はすぐに食いついたが、しばらくすると魚はたらしたえさにまったく見向きもしなくなった。魚もばかではないということが分かった。目の前に魚の姿がみえているのに、まるで釣れない。イライラしたが、それでも釣り糸をたらし続けた。結局最初の数匹だけが釣果となった。まる一日つぶしたのに。
私たちが釣った魚は民宿で料理してくれた。そのおいしかったことは忘れることができない。私がふだん食べている魚はそれに比べると腐った粕のようなものであると知った。
  1. 2010/09/16(木) 04:31:17|
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不思議な体験

私は、このブログの初めのほうで、治療の指導を受けたヨガの先生の話をしたが、その先生の家に初めて泊めていただいたことを今懐かしく思い出した。
二十代の初め、大学院で学びはじめた頃に先生と出会った。当時先生は、○市のある農家の一軒屋を借りてそこに、身の回りのお世話をするご婦人と二人で暮らしていた。指導を受けるようになった最初の頃は、いつも同僚たち三人で先生のお宅にお邪魔してお話を聞くのだが、そのうち私一人で訪ねるようになった。そして、先生は一日中ゆったりとヨガのお話をされて、ふと「今晩は、泊まっていきなさい」と言われた。
なんという歓迎ぶりだろう。単純な私は、躊躇することなく、「はい」と返事して、その日は先生のお宅にとめていただくことになった。
先生の家の風呂は、今はめったにお目にかかることのない五右衛門風呂だった。やじきた道中の物語に出てくるあの風呂だ。足の下にいきなり風呂釜 があって、下から火をくべると、その釜が熱せられて、直接足にあたるので、やじさんときたさんは、風呂のふたを湯船の中に沈めようとすると、浮き上がってし まうので、それをやっとのことで沈めて、そのふたにのって熱さに耐えるという話が書かれている。私が体験したときは、風呂釜は確かに熱かったが、耐え難いほどではなく、ジンジンと振動する感じで、暖かさが体全体に伝わってくるようだった。湯冷めしにくく現在の便利になりすぎた風呂では体験できない味わい深いものだった。
 本当はその日に体験した不思議な出来事を書くつもりだったが、いきなり五右衛門風呂の話になってしまった。不思議な体験は次回に回させていただく。

先生のお宅に泊めていただくことになった話の続きである。
風呂から上がって、少しやすんでから、奥の部屋に入った。布団は、お客さん用のとても きれいな布団だった。自分がこのように歓待されるのは初めてのことで、思わず涙が出そうになったが、そこはジッと我慢した。
気持ちが高揚していたのかどうかわかないが、寝床についたものの、すぐには眠りに入ることができなかった。横向きに耳を枕にあてがっていると、どこか遠くで、ざら板を踏んでいる音が聞こえてきた。それどころか、学生たちがそこで靴を脱いで、それを下駄箱に入れて、自分たちの部屋に戻っていくような様子が、ざら板を踏む音とともにありありとしたイメージとして眼前に浮かんでくる。それがなんであるかは翌日の先生のお話を聞いてわかった。私が昨夜の夢の中のようなことを体験したことを先生に告げると、先生の家から二百メートルほど離れたところにお寺さんが経営している学生寮があって、その寮の学生たちの様子が音を通して伝えられたのだろう、とのこと。それを聞いて、人間には不思議な能力が眠っているのだと思った。そして、そのような能力に気づくことができた先生のお宅は不思議な空間であると思った。
  1. 2010/09/15(水) 03:43:39|
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ヨガの教え

私は二十代の時に、ヨガに興味を持ち、先生の自宅で教えて頂いた。教えと言っても、ヨガの教典の話でもなく、先生が実際になされた治療にまつわる体験談というものだった。
 私は一ケ月に一度ぐらいのペースで、先生の自宅に訪れ、先生の話を伺った。先生はよく「立ち上がらなければならない」ということを仰っていた。当時は、その意味が正直よくわからなかった。「立ち上がらなければならないと言ったって、もうすでに立って歩いているではないか」という思いが私の心の中で響いていた。先生の言う「立ち上がる」とは、私たちが立って歩いていることではなかった。それから、よくこんなことも言っていた。「褌を締めて、取り組め」と。
 「褌を締めて」とは、その時も初めの頃はよく意味がわからなかったが、やがてその意味がはっきりと分かってきた。ヨガのヤーマ・ニヤーマを御存知の方は、この意味がはっきりとお分かりのことと思う。
 それから、先生はある日、私に「エーテル体」(これはアリス・ベイリーの「テレパシーとエーテル」という題名の著書の抄訳であった)と題された小冊子を渡して、この本を熟読しなさいと言った。しかし、当時の私にはとても内容が難しく、書かれている内容は、おぼろげにしか分からなかった。その中の分かった部分を少しご紹介したい。

 1.人間の肉体はエーテル体に従ってできている。
 2.肉体よりもエーテル体の方がはるかに大切である。
 3.人間はアストラル体(感情体)に意識を集中している。
 4.エーテル体に意識を向けていない。
 5.一切の形態はエネルギーより成る。
 6.宇宙に存在するものは、太陽系も惑星も、人類を含む自然の諸王国(人間王国、動物王国、植物王国、鉱物王国)もすべて、微妙で触れえぬが実在するエネルギー形態を持つ。それをエーテル体と呼ぶ。エーテル体は、その外面に見られる物質体を、人間の場合は肉体を支配し、統御する。
 7.我々は一人残らず地球大生命の意志エネルギーの中に生きている。だから、地球大生命が意識される七つの世界のうち、少なくとも一領域から来る力の糸が循環し織りなして、エーテル体を構成する。
 8.・・・・・」

 とまあ、このようなことが書いてあるわけだが、日常的常識的な思考の領域から、遙かにかけ離れた内容だから、初めて目にしても、チンプンカンプンというのが正直なところだった。 
その後、先生がお話なさっている難しいことは、大抵はこの小冊子に示されていることだったと気づくようになった。つまり、先生はこの小冊子の内容をすべて暗唱されていた。
 先生のお話を伺うかぎりでは、先生は昔の尋常小卒の学歴しかなかったから、これは驚くべきことだった。私は大学で学んでいたから、教養という点では、先生を越えていると自負していた。しかし、先生は私が読んでもよく理解できない、「エーテル体」という小冊子を暗唱されるほど熟読吟味されていたのだ。

  1. 2010/09/14(火) 03:29:30|
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親鸞の教え

親鸞は「教行信証」の中で「唯可信心高僧説」ということを述べている、と先生は語った。
 親鸞は浄土真宗を開いた教祖であるが、その浄土真宗は北陸地方に広く伝わっている。先生は福井県の出身で、先生のご両親も浄土真宗の信者さんだったとお聞きしたことがある。この「唯可信心高僧説」という言葉も、ご両親から伝え聞いたことかもしれない。
 意味は、高僧というのは、覚者のことで、その方が言われることは、私たちの知性によっては納得しがたい内容を含んでいる。証明不可能なこと、日常生活の常識からは理解しがたいこと、世間にあまり知られていないことが多く含まれている。
 アリス・ベイリーを通して24巻の教えを伝えたJK覚者は、ある本の前書き部分で、次のように述べている。
「・・・伝えた教えが世界で働く人々の啓発されたマインドから反応を呼び起こし、直観の閃きを招くならば、その教えは受入れてもよいであろう。しかし、そうでなければ、受けいれるべきではない。語られていることが結果として確証に結びつくならば、もしくは、類似(相応)の法則のもとで照らして正しいと思われるならば、それは申し分のないことである。しかし、そうでないならば、言われたことを受入れてはならない。」(アリス・ベイリー著 「新時代の弟子道」の前書き「チベット人の言葉からの抜粋」から。AABライブラリー刊)
 世間には、多くの書物が出回っている。その中には、単に推測されたことがら、権威ある学者の受け売りで、出展を明らかにせずに、さも自分で着想したように述べ、人々を驚かす世間の噂話に類することを真理と称して本を書いている人がどれほど多いことか。
 先生は、そのような内容の本を、遠ざけるべきことを言われた。そのような内容のことがらで、頭の中を一杯にしてしまうと、高僧説である覚者の教えがなかなか入っていかないからである。
 自分の知性の好奇心の赴くままに、多読するというのが、私の学生の時からの習慣であった。しかし、多読によって、自分の中に真理のエッセンスが蓄積されてくるかと言えば、決してそうはならない。読んだ多くのことは、忘れ去られ、数年経つと、それが書かれている本を読んだことさえ忘れている。
 知性(マインド)の消化吸収の仕組みは、肉体の消化吸収の仕組みと似ている。肉体も食べたものをよく噛んで、腹八分にするなら、しっかり吸収してくれる。
 マインドも、内容の消化吸収能力をオーバーするほど読むことを避けて、自分で実践できるものに限定して繰り返し反復して読むなら、マインドは健全に発達する。
 ジャンクフードのように、栄養価のあまりないものを、食欲の赴くままに、絶えず食すると、胃腸が弱る。
 同様に、真理とはほど遠い、感情要素の多い、単なる噂話を受け入れると、頭の中はゴラャゴチャしてくる。あまり本を読まない生活を送って、マインドを空腹にすることも大切である。

  1. 2010/09/13(月) 03:42:18|
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三つの奇跡

先生は、十代の頃、たぶん十二か十三ぐらいの頃だと私は想像しているが、村の寄り合いに出席して、ある兵隊さんの体験話を聞くことがあった。その兵隊さんは、先生が子供のころに住んでいた村の出身者で、アメリカに行ったときの体験談を語った。村に帰ってきて、アメリカ見聞の様子を、村人たちに話すのであった。今の町内会にあたる、村の寄り合いというものであろう。その寄り合いで、村に帰ってきた兵隊さんから、アメリカ旅行の話を聞いた。その話しに出てくる珍しい光景やら、風物などの話を、「自分もアメリカに行ってみたいなあ」と思いながら、口をポカーンと開けて、ただ黙って聞いていたそうだ。
 なんの条件づけもなく、行けるかもしれないとか、行けないかもしれない、とか考えることなく、ただ「行ってみたい」という思いと伴に、その兵隊さんの話を聞いたということだ。
 その後、まもなく、海軍の兵士募集のポスターを村のどこかで見かけた。それを見て、自分もあのアメリカ帰りの兵隊さんのように、海軍の兵隊さんになろうと考えたそうだ。
 役場に行って、受付の人に「自分は海軍の兵士募集に応募しようと思います」と申し出て、応募書類を作ってくれるように頼むと、受付の人は先生の姿を不信げにまじまじと見て「お前が?」言って、「やめといたほういい」とは言わなかった。「一応は、申込み書類を書いてやろう」と言って 書類を作ってくれたが、その中には「丙種合格」という印が押してあったそうだ。つまり、甲、乙、丙と三種類の候補生に分類されるのだが、丙種合格というのは、合格できる可能性の最も低いものだった。役場の人から見れば、先生の体格は痩せ細っていて、とても合格できそうにないと思われたようだ。しかし、それでも「丙種合格」という印を押した書類を作ってくれたことが、先生にとっては奇跡的なことだった。
 それから暫く後に、海軍から面接官がやってきて、希望者の中から、実際に入隊できる人を選抜した。その面接官は海軍の上等兵で、先生に「どうして海軍に入隊を希望するのか?」と質問した。先生は「村から海軍に入隊して、アメリカに行ったことのある人の話を聞いて、自分もアメリカに行ってみたいと思いました」と答えたそうだ。それを聞いていたその面接官は、先生の話をじっと聞いていた。そして顔を見たまま、丙種合格という印の上に×をつけて、その横に甲種合格の印を押したそうだ。これが、第二の奇跡だった。
 広島の呉にあった海軍兵学校で一年ほど訓練を積むと、各練習船から20名ほどを選抜して、アメリカに行くことができた。そのアメリカ行きの練習船は確か「鹿島」という名前だったと思う。
 各練習船には、海軍の上等兵が新参兵を見るために、船に宿泊にやってくる。先生がその上等兵の接待係となったそうだ。朝、洗面用具とタオルをもって船室に行き、その監督官が歯を磨いて顔を洗っているあいだ、タオルを持って側に立って待つ。監督官は「○○、お前は アメリカ行きの鹿島に乗船することを志願したか?」と尋ねた。「はい、自分は志願しました」と先生は、応えた。その時、監督官は歯を磨きながら、頭を傾けつつ「うーん」と呻き声を出された。
 後日、アメリカ行きの「鹿島」に乗船が許された初年兵の名簿が張り出された。その中に先生の名前があった。
 先生は、ご自分の成績から各練習船内の20番以内には、とても入れないと思っていた。それでアメリカ行きは無理だと考えていた。監督官が特別に名簿にのるように計らってくださったのだ。これが第三の奇跡。
 この三つの奇跡を通じて、先生はアメリカに行くことになるのだが、この話は、 人が無条件に、疑問を持たずに「こうなりたい」と考えると、そのように環境が自然と整っていくということをおっしゃりたかった。
 つまり、私が治療のノウハウを知りたいと思ったとき、そんなことはとても無 理だと考えず、「自分もそのようになりたい」とただ単純に思えば、いつかはそのような環境が整ってくるということを伝えたかったのだと思う。
 「エネルギーは思考にしたがう」。これが第一の秘教の教えである。
  1. 2010/09/12(日) 05:26:44|
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先生の自宅への最初の訪問

月一回の、その集会に何回か出席するうちに、先生は、私たちを自宅に招待してくださった。「一度遊びにいらっしゃい」と、声をかけてくださったのである。
 私を入れて四人の若者と少し年配の女性の方が、先生の招待を受けたが、その内の三人が一緒に先生のお宅に訪れた。
 先生の家は、岐阜県○市にあった。名古屋からほぼ2時間の距離である。私と○○は、春日井に自宅のある△△宅に集合して、それから○市まで一台の車に便乗してでかけた。
 先生は、私たちが家の近くまで行くと、太い道路まで出迎えに出ておられた。「どうして私たちが到着する時刻がわかったのだろう」とその時、私は思った。
 春日井から○市まで1時間半ほどかかるが、到着予定時刻が前もって連絡してあったわけではない。表で相当長い間、私たちの到着を待たれたのではないだろう。私たちは昼食を先生の家で御馳走になる予定であったが、12時をとっくに過ぎていた。予定時間よりも、だいぶ遅く到着したので、待つとしたら、長時間待たなければならないのだが。
 先生の家は、茅葺きの古い農家を借りたものだった。土間があって、家の前には20坪ほどの庭があった。
 早速、座敷にあがって、すでに用意してあった昼食の膳を前にした。遅れた失礼をお詫びする間もなく、「お腹がすいているだろう」と声をかけられて、すぐに食事になった。その料理の美味しいこと、美味しいこと、高級料亭の懐石料理のような御馳走だった。
 その料理は先生の奥さんではないが、兵庫県の三木市から先生に従ってついてこられた「おばちゃん」と、お呼びすることになる、女性の方が作られたものだった。
 食材は質素であったが、御飯が日頃家で食しているものとは一味も二味もちがっていた。思わず「美味しい」という言葉が出て、御飯のお代わりをしてしまう。他の人の口々から「美味しい、美味しい」という言葉が出る。先生は、「ここにきて、食事をする人は、みな美味しい、と言ってくれる」と言われた。何が違うのだろう。
 食事の後には、りんごや抹茶とともに、饅頭をいただいた。そして、のんびりと、庭に出て花を愛でたりした。
 今考えると、あのようなのんびりした気分を味わうことは、以後なかった。とくに堅苦しい話をするわけでもなく、福井の実家で過ごした先生の子供の頃の話を聞いて過ごした。先生は、いたずら好きな性格で、種を植えたばかりの他人の畑にはいって、畑を踏み荒らしたために、両親からこっぴどくしかられ、お菓子を一つもらって、農具小屋にとじこめられ、日暮れまでそこから出してもらえなかった、という話を聞いた。
 その農具小屋は野地板で囲まれていた。板の間に節穴があり、その節穴から一筋の日の光が漏れていた。太陽が傾いていくにつれて、節穴から漏れてくる楕円形をした光の足がすこしずつ移動していった。その光が照明の光のように土間に当たる所に、お菓子をおいて、太陽が移動していくのにあわせて土間を移動して遊んでいた。光のあたる所が最初はすこしずつ移動した。やがて、その移動が急激に速くなって、一気にスーと移動していった。そのとき、先生はお菓子を光の移動先に移すことができず、時間の感覚が無くなっていくのを感じたという話をされた。それは神秘体験の一つであった。

  1. 2010/09/11(土) 03:35:32|
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世にもまれなブログ

これまで、インド旅行記を書いてきましたが、これからは、私が秘教治療に関心を持つようになったきっかけと治療についての基本的知識について書いてみようと思います。あまり興味を引くことのないちょっと特殊な世界であるかもしれません。手始めにヨガの先生との出会いとその教えが伝えることができればと思います。

先生との最初の出会いについて述べておきたい。

 私は仏教の教典や生長の家の谷口雅春氏の「生命の実相」など、精神世界の書物を専門に扱っている名古屋栄にあった小さな本屋さんで、三浦関造氏の書かれたヨガに関する書物に出会った。当時「バカバット・ギータ」、「沈黙の声」、「パタンジャリのヨガ教典」などが、私の愛読書となっていた。それて、三浦先生が主催されていた竜王文庫という所に、読んだ本の感想を書いて出したところ、名古屋市北区にある稚児の宮神社で、竜王会の会合があるという連絡を頂いた。 会場の稚児の宮には早めに着いて、会場である広い畳の部屋に一人座って待った。手持ち無沙汰だったので、ヨガの教えに沿って瞑想してみようと思った。それで、安楽座法で座って瞑黙してしばらくたつと、あたりの静寂さの中に自分の存在が溶け込んでしまうかのような感じがした。そのとき、屋根の上にポトンとどんぐりが落ちる音が聞こえた。
 その瞬間、人間は自然の中の一部であって、やがては木の実が熟して大地に戻るように、完成されてこの世を去る時期が自然に来る、という悟りに似たものを得た。不思議な感覚であった。
 しばらくすると、稚児の宮でのミーティングの世話をしておられた人やら私の他に四人程の人が集まってきた。その中の一番年長で、中肉中背、五十代ぐらいで、頭をユルブリンナーのように、頭髪を剃った人がいた。その人がミーティングの指導者で、私たちの先生だった。
 その時,どんなことを話し合ったか今もはっきりと覚えている。私たちがこのヨガの教えに出会う前に、どのような精神世界の本と出会ってきたか、ということが話題になった。
 私は「ヒマラヤ聖者の生活探究」という、ベアード・T・スポールディングの書いた本に感銘を受けていた。そして、他の人々も同じ本を読んでいることを知って、非常に勇気づけられたことを思い出す。
 五冊組のこれらの叢書は、いわゆる体操のヨガではない。人間の可能性について、私たちの固定観念を打ち破る画期的な本である。現在は手に入るかどうかわからない。
 この本の中に書かれている出来事は、その後「エーテル界」で経験されたことであるという話を聞いた。物質界でのことではない、ということである。
 私は、それまでに、さまざまな精神世界の本を読んで、私たちが目にしている世界の背後には、広大な世界があり、物質界の中でも目には見えないけれど、気体状態よりももっと精妙なエーテル界という世界があるということを知るようになっていた。
 「ヒマラヤ聖者の生活探究」という本の中には、肉体を抜け出して、物質界で通常通り活動するように、エーテル体という体を用いて自由に活動する弟子の話が出てくるが、そんなことが私たちにもできるようになる、ということを伝えている。
 この本は沖縄在住の仲里誠吉氏が訳された本であった。そして、その後、その仲里誠吉先生にも東京の竜王会の会合で出会うことになった。
 断っておかなければならない。先生も私も、1982年ごろに竜王会を脱会した。自分たちが目指している方向ではないと考えて。現在は、いわゆる宗教的団体にはどこにも属していない。

  1. 2010/09/10(金) 20:44:36|
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あとがき(4)

サイババは、こう言っている「物質を創造することは、奇跡ではない。真の奇跡は、人の心を変えることだ」と。
 後数十年もすると、サイババのように自分が必要とする道具やものを直接創造する人たちが現れてくると、BK氏は語っていた。サイババはいわばその先駆けである。人間の中に、そのような力が潜んでいることを、人々に知らせているのだ。
 サイババは、こうも言っている。「私とあなた方との違いは、私は自分が神だと知っているが、あなた方は、自分が神であることを知らないだけだ」と。
 あまり本屋さんに行くことはないが、私は本屋さんで、サイババについて書かれたさまざまな本を目にすることがあった。なかには、サイババを手品師、ペテン師、ひどいものになると、幼児に性的関心を抱く性的異常者として描写するものもあった。
 感情界の愛は、時には激しい憎しみへと変化する。マインドのコントロールを失った対象への熱烈な感情は、相手から自分への関心が得られないと知ると、攻撃性の憎悪に姿を変える。
 サイババは、そのようなことも予測しておられるのか、サイババのことをペテン師と称している本の中のサイババのお写真からも、見る人が見ると、穏やかで温かいエネルギーが感じられるという。その本の著者は、いつの日か真のサイババを知ることになるだろう。
                         
 サイババからいただいたビブィーティのことをここに書いておきたい。私は大腸ガンの手術をして以来、消化力の低下を感じていた。食べたものが完全に消化されずに、生々しいまま、大便として出てくることが多かった。通常通り食べても、体力が十分についてこないし、体は痩せ細っていた。もともと痩せてはいたが、手術後は特に酷かった。気力がでなくて、何をやっても根気が続かないのは、そのせいではないかと考えていた。サイババのビブーティは、どのような効果があるものか明確にわかったわけではないが、そんな私の体の調子が少しずつ、よくなったのである。私は以前にもまして、気力の充実を感じるようになった。そして、腸の消化能力は完全に元に戻っていると感じている。たぶん、サイババから直接いただいたオレンジ色のビブーティは、私の消化能力を元に戻す働きがあったのだと思う。
 
 最後に、息子のことに話しを戻そう。その後、息子は大検に合格して、社会人枠のある大学に入学し、現在もそこで学んでいる。そして、今年八月には、名古屋ドームで開催されたサイモンとガーファンクルのコンサートに家内と私を招待してくれた。                           完
                         平成二十一年十二月

  1. 2010/09/10(金) 03:31:27|
  2. 旅行記
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あとがき(3)

思えば、私が最初にサイババと出会ったのは、千九百八十四年のことである。それは、直接、面と向かってという意味ではない。
 私は、当時私が指導をうけていたヨガの先生とともに東京のフェアモント・ホテルに宿泊中の○○○○女史を尋ねた。女史は、世界的な仕事をなさっているBK氏の通訳者として、氏が日本で講演をなさる間、氏に付き添っておられる。私たちがホテルの喫茶室で○○女史と話していると、BK氏が部屋から降りてこられて、傍らに腰掛けて私たちの話しを黙って聞いておられたが、突然立ち上がって、右手を掲げ、手の平を私たちの方に向けて、私たち一人ひとりに祝福を与えるような仕種をされた。私は正直なところ、一体なにをされているのか理解できず、とまどいの気持ちを禁じえなかった。○○女史が、今BK氏は、サイババのオーバーシャドゥを受けられて、私たちを祝福されているのだ、と説明された。
 あれから、十八年の歳月が流れた。BK氏は、講演会の終わりに誰かがサイババについて質問すると、必ずサイババのオーバーシャドゥを受けられて、私たちに愛のエネルギーを注がれる。サイババのアシュラムで、ダルシャンのときに受けるあのエネルギーである。
 ダルシャンのエネルギーが、どんな意味を持つのか、はっきりと認識できる段階に至ってはいないが、少なくとも、人間の中に永遠に宿る光があることに気づかせる働きがあったのだと、私は感じている。
 インドには、大いなる光があり、多くの人々が意識的にしろ、無意識的にしろ、その光を求めてプッタパルティに押しかけている。            
平成十四年 三月十七日
  1. 2010/09/09(木) 03:48:09|
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あとがき(2)

旅の初めは危うい事件があったが、無事に帰国の途に着くことができた。私の心にはなんとも言えない平安というか、安心感がしっかりと腰をおろした感じである。家内もきっと、そうに、違いない。彼女の顔の表情に、かつて彼女を悩まし苦しめていた不安の種が消えていることが読み取れた。
 サイババに出会う人は皆、彼に恋をする。女性たちはまるで恋人のように彼を慕う。男性たちは、父親のように彼を注視する。これはサイババから放射されている偉大なる愛のエネルギーのしからしむ所であろう。愛のエネルギーは引きつけ、癒し、平安の覆いで人を包む。燃えるような、恋心にも似た志向の熱情。その熱情は、自分も、あのようになりたい、という聖なる欲望を呼び起こす。サイババに認められる人となりたい。誰もがそのように思うに違いない。サイババはそのように思う全ての人々を引き寄せる。そして、ダルシャンという、大いなる魔術を施して、人々の心を変成していく。
 偉大なる魔術のエネルギーは、石炭がダイヤモンドに、粗末な野の草が芳香を放つ美しい花を咲かせる植物に、野獣のごとく餌を求めてうろつく動物が、介護犬や盲導犬のように、人に役立つ働きをする動物へと変身させる。
 そして、卑しい道の探究者たちを、偉大なる方たちの仕事を手伝う奉仕者へと変身させる。私は、インドへ行ってそれをこの目で見てくることができた。
 
 クアラルンプール航空の滑走路に豆電球が一列に並んでいる。遠くまで続く照明灯のあかりがイルミネーションのように続いている。まもなく飛行機は、飛び立とうとしている。私はアイ・マスクをつけて眠ろうとしている。頭の中で、今回のインド旅行の回想録の構想を練りつつ・・・

  1. 2010/09/08(水) 03:47:14|
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あとがき(1)

「すずきさん、インド旅行にいかない?」。それは、出発の日の一ケ月前のことだった。「行きたいけれど、経済状態は豊かではないので、一度家内に相談してみます」と私は答えた。安藤さんは「奥さんに相談する前に、ババ様に先にお願いしておきなさい。『どうか、私をインドに呼んでくださいって』」。
そのお願いが、本当に効力があるかどうか、私にはわからない。しかし、サイババを知った人は、そのような祈りが効果を持つものである、という理解にいたるのだ、と私は解釈した。私は素直な気持ちで、朝の瞑想の時に「ババよ。私をインドに呼んで下さい」と祈った。
 その日の夜、おそるおそる家内に言った。
「あなたに、ちょっと相談したいことがある」。
「なに?」。
「私は息子が立ち直ってくれたのは、サイババの御陰だと思っている。それは、私たちが困難の状況にあるとき、相談にのってくださったBK氏が、『息子さんのことは、サイババにお願いしときます』とおっしゃっていたから。サイババにお会いして直接お礼の言葉を一言伝えたい」。
 「いってらっしゃい」と、意外にはやい返事だったが、すぐにその後で
 「一人で行くの? 私もいっしょに行く!」と言い出した。
 彼女はサイババという存在のことをどの程度理解しているか、私にはわからなかったが、彼女も行くと言った以上、サイババについてできるだけ、多くの情報を彼女が得ておくことが望ましいと私は考えた。なぜなら、サイババに呼ばれた人しか、ダルシャンを受けることはできないのであるから。彼女がサイババに呼ばれるとは、今の時点では考えにくい。それで、青山さんが書かれた「真実のサイババ」、「理性のゆらぎ」、「アガスティアの葉」などの本を彼女に読んでもらった。そしてBK氏がサイババについておっしゃった言葉を伝えた。
 「サイババは、この地球ロゴスの摂政(注1参照)の仕事をしておられます」。
 つまり、彼は聖書の中でイエスが「父は、すずめ一羽(注58)が地上に落ちるのも御存知です」と述べているように、この地球上のできごと全てを認識できる方であることを説明した。 
「サイババは、私たちには感知できない、鉱物や植物や動物たちの意識すべてを認識できる神人だよ」と私は彼女に伝えた。
  1. 2010/09/07(火) 04:21:36|
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最後のダルシャン(4)

インドに来たときと、逆のコースを辿って私たちは帰国の途についた。クアラルンプールで、乗換えの飛行機を待っているときに、飯島先生のお嬢さんと話す機会を持った。彼女が言うには、プッタパルティに到着した時、木の上で猿たちが争っていたのは、ババ様の体調が完全ではなかったからだそうである。
 聖者のいる場所では、動物たちが争うことはないのが普通であるという。
 このようなことを知っているとは、まだ若いのに不思議な人である。また、彼女はお母さんと、二人でこのマハシバラトリの祭りに参加しようと考えていたが、ババがビジョンに現れて、お父さんも一緒にくるように、というメッセージを受けていた。
 私がスワミから、ビブーティを頂いたという話しがグループの人たちに知れ渡ってからは、女性たちが私に関心を抱くようになった。家内が、私が翻訳した本について、二人の女性に話している。彼女たちは私から直接話しを聞きたいと言った。私はアリス・ベイリーのことを紹介して話した。私がアシュラムで目撃していたのは、彼女が書いた本の中で論じられている光線エネルギー(注参考文献⑮参照)の働きであったと、認めることができる。
 近い将来、多くの人々がこれらのエネルギーを感知し、認識するようになるであろう。今は過渡期である。極少数の人たちが、一般の人々が無意識的、潜在意識的に感じて、行動に移しているものを、意識的に取り込み活用している。

 私は関空に向かう飛行機の中で、インドで体験したことを本にまとめようと、決意を固めていた。体験したことを一冊の本にまとめることは、大変な作業であり、これまで経験したことのない、私にとって初めてのことだった。しかし、どういうわけか、今はそれができるような感じがしてならない。その準備のために、旅行の最初の出来事を思いだしていた。
 
 「ダルシャンに参加できるのは、ババに呼ばれた人だけです」と安藤さんが言っていた。私たちはもう少しの所で飛行機に乗り遅れる所だった。諦めていれば、サイババに会えなかっただろう。

  1. 2010/09/06(月) 01:35:54|
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最後のダルシャン(3)

朝の七時、八時と二時間近く座って待ったが、ついにサイババはでてこられなかった。私だけでなく、グループの人たち全員ががっかりした。私だけではないのだ、と思うと私の方はいくらか気持ちが晴れやかになった。
 すべての人がサイババに恋こがれている。サイババの愛を受けようと一心に願っているのだ、と感じた。私は自分がある課題をクリアできたときが、サイババと再会できる機会であると感じた。すると、気持ちが落ち着いてきた。やや晴れやかな気分でホールを後にした。

 山内さんは十二時きっかりに荷物をドアの外に出すように、昨日のミーティングの時に言っていた。ところが、私たちが帰り支度をしていて、荷作りを終えるとすぐに、腰巻き様のチェク縞の布を腰に巻いた黒人たちの一団がどっどっと部屋に入ってきて、荷物を運び出そうとする。私はそれを制して、「ノー。ノット、ナウ。レイター。」もっと後にしてくれと叫んだ。彼らは、動物的な目付きで、部屋のあちこちを物色している。私たちが後に残していくものを頂こうというわけである。どこかで私たちが出発すること聞きつけてきたのだろう。迎えのバスが建物の前に止まった時点で、察知して、ポーターの仕事を取ろうとする。動物的すばしこさで動く人たちである。山内さんに確認してから、私たちは彼らにトランクを託した。
 後に残る沖縄から来た安里さんにお別れの挨拶をした。
 「また、会いましょう」。
 彼は急に一人だけにされるので、寂しげに「私もいっしょに帰りたくなった」と言っていた。彼と名刺を交換して、再会を約束して、階下に降りた。今では大声で言うことができる。
「サイラム」。
 これは、いつも守衛のお仕事御苦労さんです、という意味である。鼻の下にチョビ髭をつけた、中年のインド人も手を合わせて、「サイラム」と応えてくれた。それは、
「またおいでください」という意味であろう。

 部屋から出る時に、滞在中の生活から出たゴミをまとめてビニール袋にいれて、建物の前に設置してあるドラム缶の中に捨てた。バスの座席に体を沈めて、出発を待っていると、私たちが捨てたそのゴミの袋を黒人のポーターたちが開いて、その中から利用できそうなものがないか物色しているのを目にした。彼らの御陰で、全てのものが無駄なく、徹底的に利用されるのだ、と私は思い巡らしていた。ミネラル・ウォータを詰めたペットボトルを潰さずに、そのままゴミ袋に詰め込んだのは失敗であった。黒人のポーターたちの脇で、一人の活動的な中年の白人女性が、私たちが捨てたペットポトルの蓋をとり、本体と別々にし、本体をペシャンコに潰して、ゴミを分別していた。それは私たちがするべき仕事であったのだ。
 やがて山内さんが人数を確認し、部屋の鍵の返却などの後始末を済ますとバスは出発した。
  1. 2010/09/05(日) 05:42:41|
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最後のダルシャン(2)

毎日、短い睡眠時間で過ごしてきたから、睡眠不足が蓄積されて、その日はこれまでになく、眠くてしかたがなかった。じっと座っている間にも、いつの間にか、こっくりこっくりと首をうなだれていた。例のごとく、白装束の十五、六人の男性たちの集団がサイガヤトリを高らかに朗唱しながら、中央の通路を行進していく。マンディールの中では、女性たちがスプラバータムのバジャンを歌っている。やがて、鐘がうちならされ、それを合図にして、全員がオームを唱える。もうすぐだ。私の胸が期待感で膨らむ。オームの響きの余韻がおさまって、しばしの静寂が支配する。すると、スピーカーから物憂げな、ヴィーナとタンブラーによる演奏の音楽が流される。それはサイババが姿を現す合図である。ジット目を凝らして、サイババの家の方の通路を見ると、二センチほどの小さな、鮮やかなカーキ色のローブが、ゆっくりと動いている。いよいよ近づいてくるのだな。眠気は一気に消え去り、私はインダビュー・ルームに呼ばれたときを想像して、英語でどんな受け答えをしようかと、考えて英文を頭の中で組み立てていた。
 ところが、である。例のごとく、サイババは、全く男性陣の方には近づいてこなかった。女性陣の方に近づいて、引き返して、そのままインタビュールームに入ってしまった。すると、一人の中年の男性と、その息子さんらしい少年が立ち上がって、二人がインタビュールームへ向かっていった。恐らく、その少年はサイババの学校に入学を希望していて、今からサイババの面接を受けるのであろう。音楽がなり止んだ。今朝のダルシャンはこれでお終いである。私は他の人々をさしおいて自分だけインタビューを受けようとする卑しい心をみすかされたのだと感じた。恥ずかしい気持ちに襲われた。立ち上がって、出口に向かう途中、やや落胆した面もちのパウロさんに出くわした。彼は自分が「十五日までです」と答えたために、今日のイタビューがなかったのだと、どこかで思ったかもしれない。「あの外国の人のインタビューが終わった後、スワミは出てくるから、日本人グループは残って、スワミがルームから出てきたとき、全員で手を振って、スワミに訴えよう」と提案した。私たちは出口から引き返して、ホール中央の演壇のすぐ近くに陣取って、サイババが部屋から出てくるのを待つことにした。
  1. 2010/09/04(土) 04:52:01|
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三月十四日、最後のダルシャン

今朝は最後のダルシャンに参加する。最初の日と同じ三時三十分に待ち合わせ場所である三叉路に集まった。昨日までの混雑ぶりとはうってかわって、宿舎前の広場は人が疎らになっていた。給仕用のテントもすっかり片づけられていた。朝の空気が気持ちよい。昨日までの、どこかせかされる気持ちは消えて、ゆったりした気持ちで、籤引の広場へと足を運んだ。ふと空を見上げると、満天の星であった。全員が感嘆の声をあげた。新月で月明かりがないせいか、街灯の光にかきけされることもなく、六等星ぐらいまで見えそうである。日本の星空で言えば、八ヶ岳の山頂で目にすることができるような星空である。そして、アカシャもどきの喬木の、満開になっている花が放つ、あの甘い香りが、漂っている。街灯の光とそこを流れるように進んでいく人々の影。再び、「サウンド・オブ・サイレンス」のメロディーが聞こえてくる。
 広場に近づくにつれ、歩調が速くなり、それとともに、あのサイババの言葉が脳裏に蘇った。
「またお会いましょう」。
 パウロさんが十五日までいると答えたものの、今日が最後のダルシャンであるということは、サイババはきっと御存知であるから、ひょっとしてインタビュールームに呼ばれるかもしれない。自然と歩調が速くなり、セバの人に導かれて、広場を見下ろす丘の上に通じている、小道に並ばされた。今日は広場にはまだ列が作られておらず、一旦小道に並んでから、順番籤を引く広場の方に並び直させられることになった。丘の上につながる小道に並んでいると、私の左手に並んでいたすぐ左の列の人が立ち上がって、私をその列に入れ代わって入るように促した。私はグループの人たちと分かれて一人だけ、一つ前の列の中ほどに加わることができた。ほどなくして、籤引をする広場へと並び直すように導かれた。私は人数が一番少なそうな列の最後尾についた。そして、その列の籤は前から十五、六番であったと思う。ダルシャン・ホールでは、南北に走る中央の通路のすぐ脇の、サイババの姿が障害物なしに見ることができる、絶好の場所を占めることができた。期待は大きく膨らんだ。サイババがこちらに歩いてこられれば、きっと私の姿が目にとまるから、インタビュールームに呼ばれるだろう。そんなことを考えながら、座って待った。日本から来た、他の男性陣はと見回すと、山内さんの姿が私から十メートルぐらい左手に見ることができた。山内さんの左側に、他の人たちも並んで座っているに違いない。彼らは通路際から十メートル程さがった位置であった。
  1. 2010/09/03(金) 02:33:05|
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三月十三日(2)

そのミーティングの後、再び別の場所に集まった。今度は山内さんから帰国の準備の話があった。そのとき、山内さんが、私がスワミからビブーティを頂いたときの様子をグループの人たちの前で紹介したので、皆の注目が一斉に私に集まるのを感じた。女性たちの羨望の眼差しをチクチクと肌に感じた。
 私は眠りにつく前に婦人方の部屋で過ごすことが、習慣化していた。インドでの買物の話や、サイババがここにくる一人ひとりに、それぞれ違ったメッセージを伝えられることを聞くことができた。このとき、先日ダルシャン・ホールでバラの香りをかいでいたのは、ホールにいた人全員ではなく、私一人であったことを知った。
 それは、サイババのうなずきのメッセージでしょう、と安藤さんが教えてくださった。安藤さんは、知人から質問を受けて、その人に答えた答が正しいものであったかをババに思念伝達(注⑯参照)で尋ねると、ババはそれでいいですよ、という徴にジャスミンの香り、あるいは白檀の香りなどで返事を下さるという。
 私がホールで感じていた香りもサイババからのメッセージの意味があるとのことだった。
 私は、ホールにいるとき、ここで行われているダルシャンの様子を描写して、人々に伝えることができたらいいと考えていた。バラの香りは、そのわたし考えに対するババのうなずきのメッセージだったのであろうか。もし、そうだとするなら、サイババは『ダルシャンの様子を人々に知らせてもいいですよ』というメッセージを下さったことになる。
 夜遅くまで話が弾んだ。部屋に戻ったのは、夜十時ごろだった。

  1. 2010/09/02(木) 05:13:22|
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三月十三日のこと(1)

翌朝は、二時に三叉路に行った。心配したほどの混雑はなく、祭りが終わったせいか、人数が減っていた。ガネーシャ神像の広場に並んで待つこともなく、直接ダルシャン・ホールに導かれた。しかし、ホールでは、やはり後ろの方の席であった。サイババの姿を一瞬目にすることができた。八時頃には、葉っぱを重ねてぬいつけて作った器にドライカレーと芋キントンを、参加者全員がプラサードとしていただいた。
 部屋に戻って、すぐに寝てしまった。起きたのは、十時半頃だった。
 十二時には、安田さんと沖縄からきた安里さんと三人で、ダルシャン・ホールに向かった。ホールに向かいつつ、サイババの「またお会いしましょう」という言葉を思い出していた。ひょっとしたら、今日は、サイババが私たちをインタビュールームに呼んでくださるかもしれないと期待した。
 ホールの中では、中央通路のいつもの反対側、つまり私が寄宿舎の学生たちや特別な人たちが並ぶと思っていた、ホールのセンター部分に導かれた。
 私たちのすぐ後ろにインドの、年の頃十二、三才の子供たち三人が並んで座っていた。その中の一人は、私のことを知っているかのように、親しげに話し掛けてくる。三人は、サイババに手渡すための手紙を持っていた。彼らは手紙をサイババに手渡したいので、私から渡してくれますか、と言うから、サイババは必ずしも受け取って下さらないかもしれないから、自分で渡しなさいと言うと、それではババがきたら脇にどいてくれますか、と言っている。
 「もちろんだよ」。と答えた。
 少年たちは、九日の朝、サイババが私の手紙を受け取ってくださったのを見ていたに違いない。私を見る目のまなざしが、親しみに満ちている。
 結局、その日も、期待した通りにはならなかった。
 サイババは、私たちが待機していたホールの右翼の方には、近づくことはなく、住まいを出て女性陣を回ってすぐにインタビュールームに姿を消してしまった。
 ホールから出ようとすると、再び三人のインドの少年たちに出会った。何か強くひかれるものを感じて、その中の一人に英語で書いてある私の名刺を手渡すと、他の二人もそのカードを欲しいと言った。結局三人に私の名刺を渡して、ホールを出た。
 部屋で昼寝をして五時二十分頃に目覚めた。五時四十五分にN7棟の二十五号室で、日本人グループのミーティングがあります、という連絡が入った。
 由比さんという方は、生まれはインドであるが、日本に帰化されて、日本語も達者である。東京のサイ・オーガネーションのお世話をしておられるという。ホテルをいくつも経営されて、このプッタパルティにサイババの博物館を建てるほどの大金持ちであるが、偉ぶったところが少しもなく、腰の低い方である。その人が、ババ様のマハシバラトリ祭でのお話を日本語に訳して伝えて下さった。
  1. 2010/09/01(水) 03:43:13|
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三月十二日(5)

彼女たちは、ババが出されたリンガムを見ることができた。それは、金色のまばゆい光を放っていた。
 リンガムを出されるとき、大勢の人たちが立ち上がって、塀にかけよって攀じ登ろうとする人たちがいたが、婦人たちはスクラムを組んで、押し寄せる人波をふせいでいた。サイババが柵のところまできて、婦人たちに投げキスをして、挨拶をしてくださった。
 私はそのような話しを消灯時間近くまで聞いていた。
  1. 2010/09/01(水) 03:39:41|
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