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秘教治療

アリス・ベイリーの秘教治療を紹介しつつ、ヨガの先生の教えを回想する。霊治療、光線エネルギーのまったく新しい知識を織り込んでいきます。エーテルについての知識を広めることを目的としています。

三月十二日のこと(4)

宿舎には中庭があって、それをぐるりと廊下が囲んでいる。女性たちの部屋のドアに鍵がかかっているのを確認して、引き返そうするとき反対側の廊下をこちらに向かって歩いてくる大垣さんに気がついた。彼女はペコリと頭を下げて、「ありがとうございました。ビブーティを奥様から頂きました」。と挨拶された。
 朝のダルシャンのときにセバの人から頂いたプラサード(注57)一人で食べてしまった、と私が婦人たちの前で語ったら、家内が「うちの主人は、いつもそうです。人に分け与えず自分だけ食べてしまいます」。と愚痴を言った。
 これは、私がサイババから頂いたビブーティを分けてもらっていない、腹いせの言葉だと解釈した。私は自宅に戻ってから家内に差し出そうと思っていたビブーティをすぐに持ってきて、彼女に差し出した。小匙一杯分もない、わずかな量である。
 家内は、何事も独り占めにせず、どんなにわずかでも、分かち合うというのが信条で、その僅かなビブーティを隣室の、他の人たちとも分け合ったようである。私は感心するというよりもどちらかというと、呆れたという方が正直な思いだった。
 その日の夜も婦人方の部屋に行って、今日のお祭りの様子を聞くことにした。
 婦人方も全員が一つになっていたわけではなく、リンガムを出す場面を見た先程の人たちのグループとは別行動だったそうである。家内は、インドの人たちが、このお祭りに参加するために、遠い道のりを裸足で歩いてくると聞いて、そのひび割れた足を見ているうちに、この人たちこそ前の方の席につけますように、と祈ったらその通りになって、自分たちは、ホールには入ることができず、ホールの外で中の様子を伺うことになったと話した。
 家内は、自分の考えたことが、そのとおりに実現するということを身にしみて実感しているようであった。思い通りになったということを、家内からこれまでにたびたび聞いていた。
 サイババがリンガム(注55)を出すとき、非常に苦しそうな様子なので、心の中で、どうか苦しむことなく、リンガムをだされますように、と宇野さんは祈った。すると、二回目にリンガムを出されるときは、苦しむ様子はなく、楽に口から出された。
 安藤さんは、自分がこの祭りに参加することになった意味をビジョンで、悟らされた。そして、マハシバラトリ祭の意味と、サイババの隠れた役割について啓示を得られたとおっしゃった。一人ひとりの祈りがかなえられていることに驚きを禁じえない。これは、だれの祈りであろうとも、決して無駄に終わることがないというメッセージを、サイババが出されているのだと解釈した。
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  1. 2010/08/31(火) 14:21:05|
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三月十二日のこと(3)

ショッピングセンターは、ゴム草履を履いたままでもよかったのであるが、ダルシャン・ホールやキャンティーンに入るときのくせで、ゴム草履をおもてに脱ぎ捨てていった。草履を脱ぎ捨てた場所にもどるとそれは無くなっていた。
 トボトボと裸足で宿舎にもどる途中、パウロさんと出会った。草履をとられたことを話すと、パウロさんも何度も経験しているという。そして、草履を脱いでおくときは、揃えておいておくのではなく、片方ずつ五メートルぐらい離しておくと、とられなくてすむ、と知恵を授けてくださった。
 私はキャンティーン北側の道の脇にある黒板に英語で書かれたババのその日の教えを見つけ、ノートに写し取った。その日本語訳をここに紹介しよう。
 「人は、毎日食べ物、着るもの、住む所を得ようと心をくだく。これらは、肉体を養うものである。人は、心(マインド)を養うものも求めるべきである。それによって、心(マインド)を健康かつ安寧に保つことができる。心(マインド)こそ、肉体を条件づけているものである。心(マインド)は、蒸気機関車のはずみ車、最も親しい友人である。心(マインド)を通して、人は人生に勝利し、己を救うことができる。心(マインド)に手綱をつけ、それをコントロールし、正しく活用することによって、人は解放され、保護される。心(マインド)のわがままを許せば、人は呼吸が浅くなり、そしてしばりつけられる」。
 易しい言葉で書かれてはいるが、人が人間王国(注56)を卒業するまで意味を持つ、深遠な教えである。原文では最後の文が「エンタグルド」つまり「首をしめられる」となっているが、私は「呼吸が浅くなり」と訳した。
 モーゼは二枚の石版に神から授けられた十戒をしたためて、現代の人種のためにもたらした。秘教(注3参照)の教えによると、十戒は、マインドを発達させるべき今の時代の人種のために授けられた戒めだそうである。二枚の石版は肺臓を象徴している。つまり、十戒を守ることができないこと、すなわち、マインドの誤用は肺の機能を弱らせ、呼吸機能が弱体化すると示されている。サイババの言葉は、そのことをそっと知らせている。

 部屋に入る直前に、同じ階の、東京からきている女性グループの一人の女性に出会った。名前を思い出すことができない。その人に尋ねてみた。「リンガム(注55)は見えましたか?」驚いたことに「エエ、バッチリ見えました」。
 あれだけの人が集まっている中でよくぞ、と思ったが、後で聞いてみると、朝のダルシャンをパスして、朝から順番待ちの列に並び、午後のダルシャンの時は、前の方に陣取ることができたということである。
 なるほど、そういう手があったか。何度もここに来ている人でなければ考えつかない方法である。サイババがリンガムを口から出す瞬間を目撃しようと、彼女たちの執念に驚きを禁じえない。それに比べて簡単に諦めてしまった自分の淡白さを情け無いと思った。
 リンガムを口から出す瞬間を目撃する者は、非常な恩寵が得られると言う。その意味は、年によって違うようである。今年の意味は、まだわからないが、以前の意味は、その瞬間を目撃した人たちは、輪廻の法輪から解放されると聞いた。しかし、あまりの瞬時の出来事で、その瞬間を目にした人は、私の知る限りでは、それまでの日本人の中にはいなかった。
  1. 2010/08/31(火) 05:27:47|
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三月十二日(2)

「すずきさん」とよびかける声で、目が覚めた。ベッドの脇に安田さんが立っていた。ムクッと身を起こすと、安田さんが、「もう十一時です」と教えてくれた。彼は着替えを済ましていつでも出かけられる状態だった。「これ、奥さんからの差し入れです」。
 私が寝ている間に葡萄を買って来てくれたようだ。一房で二キロぐらいはあろうかと思われる大きな房だ。日本で、マスカットと呼ばれている白いブドウであるが、それとは種類が異なる。種はなく、皮と実の部分がはっきりと分かれていないので、皮なり食する。味はマスカットと同じだが、やや大味である。
 安田さんは、すぐにでも会場に向かいたいようであった。私は睡眠不足が蓄積されていたのと、今朝の大勢の人波に圧倒されていたので、「午後のダルシャンはパスします」。と安田さんに伝えた。安田さんは一人で出かけた。
 祭りの日には、断食をして身を清めてその日を迎えるのが、正しい迎え方であると聞いていたが、私は食欲の誘惑に耐えることが出来なかった。安田さんのために買ってきたカシュー・ナッツ、アーモンド、松の実などの袋に手がつけられていなかったので、安田さんに「これ、安田さんが食べないなら、私が食べます」。「どうぞ、私の胃は受け付けません」。という返事だった。それら木の実と家内がさしいれてくれた葡萄を昼食代わりにした。
 私は部屋で一人過ごした。静かな午後であった。人々は、ダルシャン・ホールに集まっている。今回の旅の目的は、今日のお祭りに参加することであるので、当然である。
 私は、少し後ろめたい気持ちを感じていた。しかし、第一の目的は、最初の日のダルシャンで叶えられていたので、十分満足を感じていた。
 ベッドの上で、日本で遣り残してきた校正の仕事をした。
 午後六時ごろ、山内さんが新しい人を連れてきた。沖縄の方で、安里さんと言った。安田さんとは旧知の間柄だった。二人は懐かしそうに話している。ずんぐりした体型で、頭はショートカット、いかにも体育の先生という感じの、純朴な雰囲気を持つ人だった。
 安田さんは、ベッドよりも床の上に直接マットを敷いて寝る方を選んで、これまで使っていた自分のベッドを安里さんに譲った。
 私は、ショッピングセンターに行って、有り余っているルピーで、何をお土産に買って日本にかえろうか、下調べをすることにした。
 サイババの講話や、バジャンを世界に放送し、それを受信することができる日本製のラジオが、ショッピングセンターの一階で、六千ルピーで売っていた。
 同じ階に健康食品や薬品を並べた棚があった。アユルベータの教えに基づいて、植物から抽出した様々なエキスがあった。その中のあるものに私は目をつけた。日本に帰る前日にそれを購入しようと考えた。
  1. 2010/08/30(月) 04:41:19|
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三月十二日のこと(1)

朝二時四十分に目覚めた。今日はマハシバラトリ祭(注54)の日だ。
安田さんが元気になっていた。「安田さんは西洋医学の薬の信奉者だね」。と皮肉を言ってしまった。
 しかし、彼は自分でサイババに治療のエネルギーを送ってくださるように祈ったら、すぐに治ってしまったと言う。私はハッと気がついた。サイババに安田さんに治療のエネルギーを送ってくださるように祈ったが、そのとき、もし安田さんの病状がすぐによくなれば、きっとそれは私が祈ったからだ、と自分の手柄にしたい気持ちが芽生えていたろう。祈りの効力を知り始める者が陥りやすい罠がそこにある。祈ることを知るものは、自分を無とすることを学習しなければならない。その意味で、安田さんに「自分で、サイババに治療の愛のエネルギーを送ってくださるように、祈れば、、、」と告げたことは正解だった。
 本人が真剣な気持ちで祈ることによって、二人で協力すれば、治療の力は大いなる効力を発揮する。そしてすべての人が、その力を持つ。

 安田さんと二人で、三時十分頃待ち合わせの場所に行った。途中、日本からの女性たちのグループが、円陣を作ってガヤトリー・マントラム(注44)を唱えているのを見かけた。グループで統一して行動しようというわけだ。
 待ち合わせ場所に、私たち二人以外誰もいなかった。会場に向かう大勢の人の流れを見やりながら、二人で、「この時間になっても他の人が一人もいないとは、変だね。もうでかけたかもしれない」。「とにかく十五分まで待ってみて、それまでに誰も来なければ、二人で行きましょう」などと話していた。
 やはり誰もこなかった。行く前に飯島先生の部屋を尋ねて見た。ドアをノックするとお嬢さんが出て来られて、「父はすでに出かけた」と言われた。
 二人は、ガネーシャ神像の広場に急いだ。立錐の余地もないほどの人が集まっていた。私たちは、丘の上に通じる小道に沿って、並ぶように指示された。この小道も、インディアン・キャンティーンの脇にある、あの同じアカシャもどきの木に覆われていて、その花の香りと、ガネーシャ神像(注40)を祭ってある祠で焚かれているお香とが入り交じって、強い薫りがあたり一面に漂っている。
 待つこと一時間ほど。意外に短い待ち時間だった。ホールに導かれた。ホールでは最前列から百人以上後方であった。サイババの姿は、遠方に小さく、それもほんの数分間、目にしただけであった。
 しかし、私はホールでサイババを待っている間、ずっと例のバラの香りをかいでいた。私はこの香りは、ホール全体に漂っているものだと相変わらず考えていた。
 会場を去る直前にセバの人たちが、プラサード(お供えもの)を参加者に配る。それは椰子の実のココナッツをチップ状に固めたものだった。私はその場で、一口で食べてしまった。後で、家内が私に教えて言うのであるが、それは周囲にいる人たちと分け合って食べるべきものであるという。私たちは、その後で行われるバジャンをパスして部屋に戻った。
 マハシバラトリ祭の日には、キャンティーンは開かれないと聞いていた。
 
  1. 2010/08/29(日) 06:16:49|
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再び婦人方の部屋で

買物から戻ると、突然、婦人方の部屋に訪れた。どうぞ、といって部屋の中に招きいれてくださったが、洗濯ロープに、客人に見せたくないものが干してあったらしく、私をドアの前に待たせて、慌てて洗濯物を移動させている様子が伺えた。
 婦人方は、キャンティーン裏手の小道の脇にある小さな黒板に英語で書かれた、サイババのその日の教えに、何が書かれているか、知りたがった。消灯時間の九時頃に部屋に戻った。
  1. 2010/08/28(土) 03:39:52|
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五日目のこと(1)

三時十五分に、例の三叉路で待ち合わせた。山内さんを見るなり、安田さんのことを伝えた。山内さんは案外平気な顔をして、「大体到着して三日ぐらいたつと、毎回一人ぐらい病人がでます。一度会って、病院に連れていくか、その必要はないか見てみます」という返事だった。
 先頭の人が順番籤をひく、例の広場へと急いだ。歩いているとき、山内さんが私に呼び掛けた。「すずきさんは運が強いようだから、今日はすずきさんが最初に並んでください。私たちはその後ろにつきますから」という。「運悪く、後ろの方になっても、責任はとりませんよ」と答えて、ずんずん進んで、グループの先頭にたった。右端の四列目にひかれるものがあったが、その左の列が最も短かったので、その最も短い列の最後尾についた。グループの人たちは、私の後ろに座って待った。
 先頭の人が籤をひくと、やはり最初の直観通り、私たちの列のすぐ右側、右端から四番目の列が一番籤をひいた。私たちの列は十二番だった。順位としてはあまり前の方ではないが、ダルシャン・ホールへ導かれると、中央のアーケードの真下に近い位置で、つまり右側に人がほとんどならんでいないので、見通しが開けていて、サイババの姿が間近に見える位置だった。
 サイババが姿を現すと、昨日とはうって変わって、全身の姿を目にすることができた。しかし、女性陣の方に近づくばかりで、男性陣の方には一向に近づいてこなかった。しかし、サイババの姿は最初から最後まで、目にすることができた。
 ホールからの帰り道、パウロさんが、「今日のダルシャンはすばらしかった」を連発していた。
 キャンティーンで一人朝食を取った後、すぐに部屋に戻って朝寝をした。ベッドに横になっていると、まもなく山内さんが安田さんを見舞いにきてくださった。山内さんは日本から色々な薬を持参してきていて、下痢の薬から風邪薬など何種類か差し出して、風邪の症状だから、風邪の薬を二、三種類飲んでみて、症状がよくならなかったら、病院へいきましょう、ということになった。安田さんは、山内さんの見舞いでかなりホットしたようすが伺えた。
 十一時に、早めの昼食をとることにした。祭りの日が近いので、人々の数が増えている。N棟全体は、外国からの訪問者用宿舎である。その南がわにある広場は、千平方メートルぐらいの広さがある。そこにテントが張られた。それは、国内からお祭りに参加するためにやってくる人たちに食事をサービスするための準備だと誰かが言っていた。何千人という人たちに無料で食事が供される。
 正午過ぎに三叉路に行ってみると、山内さん、パウロさん、少年の三人は午後のダルシャンには参加しない、という。
 三叉路付近の広場から、ダルシャン・ホールに向かってトウトウと人が流れ始めている。ガネーシャ神像広場は既に満杯で、小高い丘に通じる小道に並ぶことになった。
 ホールでの私たちの位置は、中央付近であったが、柱が邪魔になって視野もせまい。そこからは、ほんの一瞬のサイババの姿を見ただけだった。
 ダルシャンが終わるとすぐに人々は、バジャンをするのであるが、私はそれには参加せず、すぐに部屋にもどった。
 帰る途中、西洋キャンティーン前のキオスク型売店で、パック入りのマンゴー・ジュースを二パック買った。安田さんは、アイス・クリームとジュースだけは、喜んで口にしてくれる。部屋に戻る途中、二見さんを見かけた。彼は背が高く、スラリとした体型で、髪の毛をミュージシャン風に後ろで束ねていた。他の人とあまり言葉を交わす姿を見かけることがなかった。飛行機の中で、英文の本を読む姿を見かけた。孤高の人という感じであった。山内さんは、彼はチェンナイで私たちと別れて、アガスティアの葉(注52)を見に行ったと言っていた。
 後からアシュラムに来て、私たちの部屋に加わると聞いていたので、同室になったら、アガスティアの葉の話しを聞こうと楽しみにしていた。しかし、彼は私たちとは同室にならなかった。
 部屋に戻ると、二時五十分になっていた。それから、部屋に雑巾がけをして、シャワーを浴び、洗濯をした。そして、昼寝。五時二十分に起きて、買物に出かけた。濃縮ジュースを二本、袋詰めのビブーティを何袋か、ガヤトリー・マントラム(注53)のカセットなどを購入した。
  1. 2010/08/27(金) 02:05:44|
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四日目のこと(6)

インドでの買物の仕方は、慣れると値切りの交渉が楽しいと感じた。最初に言われた値段の半額位を言って、それでまとまると、何だか勝負ごとに勝ったような気分になる。 
 買物から帰る途中の家内との会話の中で、家内は、同室の女性たちが昨日のダルシャンの時のことをお話しに来てください、と言っているという。「今晩、八時頃、行くよ」と言って、分かれた。私はショッピングセンターに行って、何も食べずに寝ている安田さんのために何か食べ物を買うことにした。西瓜が目についた。日本のものとは違って、ちょっと長細い形をした西瓜を一つ購入した。その他、カシュー・ナッツ、松の実、アーモンドなどを購入した。
 西瓜を半分に割って、二人で食べた。安田さんは美味しそうに食べてくれた。西瓜で十分に満足したので、夕食はパスして、読書をした。八時になって、三階の女性たちの部屋を尋ねた。部屋に入ると、安藤さんが開口一番「よかったね。インドに来たかいがあったね。すずきさんにインド旅行を誘ったとき、ほんとにインドに行きたそうだったもの」と、私がサイババからビヤーティを頂いたことをまるで自分のことのように喜んでくれた。籤が一番だったことは、単なる偶然ではなかったこと、サイババ様は、私のことを全て御存知であると、一緒に並んで座っていた飯島先生が話してくださったこと、そして、サイババが私たち日本人グループに近づいてきたとき、他の人たちには目もくれず、私に視線を注ぎながら、まっすぐに目の前にこられて英語で「日本からきましたか」と尋ね、私が「イエス」と答えたきり、私が上がってしまって、サイババがおっしゃった、あとのことが理解できず、代わりにパウロさんが答えてくださったことなどを、得意になって話した。話しながら、感情が込み上げてくることが分かって、思いを他の方に向けなければならないと感じた。それで「ホールの天井に、ハトが飛び交っているのを見て、あのハトたちが時々落とすフンが気になった」という話しをした。
 女性たちの中に歳の頃、六十代の御婦人がいて、名前は宇野さんという。サイババの伝記を何冊も読んでいられて、その中のいくつかのエピソードを話してくださった。ババが子供の頃、砂場のような所で、砂の山の中に手を突っ込んで、その中から、ババの友だちが望んだ彫像や、色々な物を取り出すという話し。一本の木から、種類の異なる色々な果物をとって、友人たちに食べさせる話し。そして、その木は今でもアシュラム内の丘の上に立っている、という話し。
 私が話したことよりも、多くのことを聞いて女性たちの部屋から戻った。夜九時を回っていた。部屋に戻ると、安田さんの容体が前よりも悪化していた。見るからに辛そうである。私は安田さんの脇に座って、自分の手から治療のエネルギーを注いでみた。そして、ベッドに入る前に、ベッドの上で結跏趺座(注51)して座り、「これから安田さんが病状から解放されますように、サイババにお祈りします」と言ってしばらく祈り、それから眠りについた。
 真夜中の十二時頃に目が覚めると、安田さんは眠りにつくことができないでいた。「大丈夫ですか」と声をかけると、「明日、山内さんに、病院に行きたい、といって相談してください」という。いかにも体がつらそうである。今が病気の山場である。「分かりました。では、明日一番に山内さんに相談します」と言って、再びベッドに横になった。

  1. 2010/08/26(木) 04:17:21|
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四日目のこと(5)

三時になったので、博物館に向かった。通路にも、仕切り壁にも大理石がふんだんに使われている。屋根の形は日本の寺院を模したものらしいが、どことなく中国の宮殿を思わせる。アメリカに行ったときにも感じたことであるが、外国の人々にとっては、日本と中国の区別がよくつかないようである。日本式庭園と言われているものを見たら、私の目には中国式庭園と見えた。この博物館をデザインした人も恐らく日本人ではなく、インドの人か、日本をあまり知らない外国の人であろう。
 館内をぐるぐると急いで回って、飯島先生制作のサイババ像をさがしたが、どこにもみあたらなかった。新しく作られたこの博物館ではなく、旧来の博物館の方にあるだろう、ということになった。
 ゆっくりと見ることができなかったので、何が展示されていたか、詳しく述べることはできないが、サイババがこれまでに行った数々の奇跡が、その時の状況を人形とイミテーションで再現されていた。その他、世界の五大宗教の開祖たちを紹介するコーナーが設けられていた。各宗教の教えを、ビデオを見せながら解説するコーナーもあった。いつか、機会があればゆっくりと見学したいと、後ろ髪をひかれつつ、その博物館を後にした。

 部屋に戻る途中の廊下で家内とばったりでくわした。同室の人たちと買物に行ったとのこと。後で一緒にアシュラムの外へ買物に出掛ける約束をして、その場は分かれた。
 日が沈んでまもなく、日中の暑さもややおさまりかけた頃、私は家内と一緒にアシュラムの外にでた。道路をはさんで、さまざまな店が並んでいる。道路を挟むアシュラム側には、果物や野菜を並べた露店が並んでいる。反対側には、衣料やサイババの写真、サイババの講話のテープ、サイババのビブーティ。とにかく、サイババに関連するありとあらゆるものが売られている。家内が最初に案内してくれた店でサイラムスイートというお菓子を買おうとしたが、一袋二十ルピーだという。アシュラムのショッピングセンターでは四ルピーで売っているのである。私は即座に「ノー、アイ、ドント、バイ、イット」と答えて、その店を出た。交渉してもっと安くできたかもしれないが、明日になれば、ショッピングセンターで買うことができる。
 次に訪れた店は、神像や祭具を販売する店であった。家内はガネーシャ神ともう一人の名前はわからないが、二人の神の像を、手の平に収まるぐらいのビャクダンの木に彫刻したもので、小さなチョウツガイでつながっていて、二つの像を重ねて内側にしまうことができるものを欲しがった。家内の話しを聞くと、それは私が買って持つべきものだという。値段を聞くと、五千円だという。もちろん、日本だったら、三万円ぐらいはするものである。私は、日本円は持っていないし、そんな値段では買えないと答える。じゃ、三千円にするという。ルピーでは一千ルピーである。そこで手を売って買うことにした。
  1. 2010/08/25(水) 00:36:19|
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四日目のこと(4)

もっと乗っていたいと思いつつ、博物館の前で降りた。しかし、博物館は三時に開館で、まだ三十分ほど時間があった。その時間をつぶすために、私たちは喫茶店に入った。 
 パウロさん一人、どこかにいっている間、山内さんと飯島先生と私は小さな喫茶店の入口付近のテーブルに腰掛けていた。軽便タクシーに乗り込んだときから、インドの少年が私たちの後について来ていた。私に親しげに言葉をかける。それも日本語である。「こんにちわ」という。日本語が理解できるようである。私が「日本語が分かるとはすばらしい」というと、山内さんが、その少年を斜めににらみつけて「彼らは、テイのいい乞食で、こちらが気を許すと、やれ父親が病気で寝ているとか、母親が働けないとかと言ってきて、最後にはお金をくれだ。一度お金を与えると何度でもせびりにくる」と。
 日本語で話すと、その少年には山内さんが何を言っているのか分かったようで、すぐに姿を消してしまった。何を注文しようかなと考えていたら、山内さんがマンゴー・ジュースを注文してくださった。ビンはほこりで黒ずんでいて、のみ口付近は特に垢のようなものがこびりついている。少々の汚れは気にしないのがインド流である。私は敢えてティシュで拭きもせずに、そのまま口をつけて一口飲むと、何とも言えない濃厚な本物の味である。初めて味わった。「これ、うまいね」と思わず口にだすと、山内さんが「でしょう?」と、私の目を見てうなずいた。日本では決して味わえない、まじりっけなしの自然な味である。しかも値段は十ルピーほどである。私がミネラル・ウォータを注文しようとすると、山内さんが、ボトル一本とコップを三つもってくるように主人に言った。そして、そのステンレス製のコップの表面を、ティシュを取り出して、丁寧にぬぐっている。拭いながら、インドに来て、下痢を訴えるのは、日本人だけで、その中でも、日本で水道水を飲んでいる人たちだという。こんなに体が弱くなったのは日本の水道局のせいである、という説を唱えられた。昔のままの井戸水を飲んでいる人たちはインドに来ても下痢を患うことはない。腸内には、善玉菌がいて、少々の大腸菌が体内に入っても、平気である。ところが日本の水道水は塩素で殺菌されて善玉の大腸菌まで殺しているから、それを飲んでいる人たちの腸内は無菌状態になっていて、インドに来てわずかな大腸菌にふれて下痢を起こすというわけである。インドの人たちは、同じ水を使って何度も食器を洗っている。だから、その食器に付着している水滴の中には大腸菌がうようよいるのだというわけで、ティシュできれいに拭き取っているのだった。私は塩素で殺菌した水道水は飲まずに、○○山の麓の湧水を汲んできて、それを飲み水にしているので、少々の大腸菌は平気である。
 短時間で、塩素で殺菌して浄水する方式ではなく、時間をかけて沈澱させて自然の上水に戻す方式の浄水の方法もある。ヨーロッパで使われている、この方法は大腸菌が完全に死滅しないが、人間の体にはよいそうである。早く、この方式に変えてもらいたいものである。
  1. 2010/08/24(火) 01:43:57|
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四日目の朝(3)

インド人で、ここに来ている多くの人たちは牛や馬のように、辛い肉体労働をして生活している社会の底辺で生活している人たちである。中にはどこかの国の宗教指導者と推察される高貴な風貌をした人を見かけることもある。きっと社会的地位が相当に高いと思われる立派な容貌をした人もいる。それらの人たちもこのダルシャン・ホールでは区別をされることはない。私たちと同様に冷たいコンクリートの上に、時には昼間の日光で焼け石のように熱くなっているコンクリートの上に、数時間座り続けて待つ。そして裸足でホールにはいり、そこでもサイババが現れるのをジット待つ。彼らのような高貴な人々と、私たちのような地位も名誉もない者が、全く平等に扱われているということは、不思議な感覚である。
マハシバラトリ祭が近いせいか、人数が急激に増えていた。順番を待つ広場だけでは間に合わず、その広場に通じる丘の上に延びた小道に沿って並ばされた。ホールに入ると、ずっと後ろの方である。
 暑い中を長時間待たせるのは、気の毒なことであると、サイババが判断されたのか、周囲の人が判断されたのか分からないが、意外にはやくホールへと導かれた。ホールで待つ時間も短かった。しかし、サイババが姿を現すとすぐに部屋に入ってしまわれて、それっきり、部屋の外には出てこられなかった。ほんの一瞬であった。ややがっかりして、ホールの出口に向かって歩いていた。山内さんがまだ時間が早いから、由比さんが建てた博物館に行ってみましょうと提案した。バンガロールからここにくる時に、丘の上に見えた真新しい建物である。そこに飯島先生のサイババ像があるはずだ、という。
 常駐する守衛に護られているアシュラムの門を出た。山内さんがタクシーをひろってくれた。タクシーといっても、日本でかつてミゼットといってオートバイのエンジンで走る三輪車式の小さな乗り物である。交渉して三十ルピーで博物館まで乗せていってくれるという。パウロさんもその軽便タクシー(注50)をつかまえてきたが、そちらは百ルピーだという。もちろん、そちらはキャンセルした。バタバタと、ものものしい音をたてて、そのタクシーは走っていく。通りは大勢の人たち、牛車やオートバイなどの他の乗り物でごったがえしている。速度は、人間の駆け足程度である。暑い中を三十分も歩くことはうんざりするが、そのタクシーで風をきって運ばれるのは快適そのものである。
  1. 2010/08/23(月) 04:17:26|
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四日目の朝(2)

目覚めたのは十時三十分頃だった。宿舎北側の建物の、どの階か分からないが、バジャン専用の部屋が設けてあるらしい。毎日、ほとんど一日中、女性たちのバジャンが聞こえてくる。私の目が覚めたのも、彼女たちのバジャンの歌声が響いてきたからである。
 北側の窓は、あけはなしてあるが、蚊が入ってこないように、網戸がとりつけてある。日本から蚊とり線香を持参してきていたが、それを使う機会はなかった。四階の部屋ということもあり、入口のドアを開け放っておいても、蚊がそこから入ってきて、その蚊の翔ぶ唸り音を聞くということはまるでなかった。
 窓の外を見ると、その北側の隣の建物の屋上に四、五匹のサルがたむろしている。柵も何もない屋上のへりに腰掛けて、すこしバランスを崩せば4階分の高さを真っ逆様に落下するのだが、そのような恐怖を全く持たずに、屋上の縁から八十センチほど下から出ている雨樋の筒にさっと手を伸ばして、器用に身をくねらせて、樋をつたって降りていく。次々にサルたちは、樋を伝って降りていった。
 私は日本から持ってきた本を開いて読書をした。バジャンを聞きながらであるが、意外に集中して、読書のペースがはかどった。
 安田さんを昼食に誘ったが、「食欲がないので、一人でいってください」という。今回もインディアン・キャンティーンにした。朝はチャパティだったので、今度はライスにした。日本のものよりも細長い米で、パサパサしている。ねばりがない。私はあまり肥えた舌をもっていないので、この米を不味いと思ったことはない。日本のグループの人たちは食事の前にあるマントラムを唱えてから食べるのであるが、私はそのマントラムを知らない。しかし、別の祈りを知っている。こうである。「食するものを、感謝して、偉大なる母に捧げます」。このように祈りながら、眉間に集中する。すると、食物を構成しているエレメンタル(注48)たちの魂に、ある働き掛けがなされる。彼らは調和した形で、それを食する私たちの体内に吸収される、と教えは示している。大切な教えであるが、私はときどき食前の祈り(注49)を忘れて、食欲にほだされてがむしゃらに口へと運んでしまう。教えが習慣として身につくまでは、長い時間がかかるものである。
 午後のダルシャンに参加するために、最初に約束していた十二時半よりもずっと早い時間に、三叉路に行ってみると、飯島先生一人待っておられた。だんだん人が多くなってきたので、これまでと同じくらいの時間では、前の方に座ることができなくなっている。山内さんはパウロさんとすでにいってしまったと言われる。少年をしばらく待ったが、どうやら彼ももう行っているようである。彼は一人でもホールに来られるということで、飯島先生と私の二人でホールに向かうことにした。飯島先生に話し掛けた。「先生のように、社会的地位もあり、名誉もおありになる方が、こうして裸足で歩き、何時間も座って待たされるのに平気で参加されるのは珍しいですね」。「このようなダルシャンに参加されることは大学の先生方には馴染めないことだと思いますが」と言うと、「私も同僚の方にお勧めしようとしましたが、大学の先生方は難しいです」とお答えになった。
  1. 2010/08/22(日) 03:32:37|
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三月十日、四日目のこと

ホールから出る時は、グループから離れていた。少年も一人で帰ったようだ。私はインディアン・キャンティーンで朝食を済まして部屋にもどった。インディアン・キャンティーンのメニューは毎日ほとんど変わらない。ライス、チャパティ、二種類のカレー、野菜を煮込んだもの、サラダ、そしてプレーン・ヨーグルトである。
 私は西洋キャンティーンよりもこちらの方が気に入っている。第一値段が安いし、味が淡白である。ヨーグルトは甘い味をつけた西洋キャンティーンのものよりも、飽きがこない。周りの人たちは黒い肌のインドもしくはパキスタンやインドネシア、ネパール、西アジアから来ていると見受けられる人たちばかりである。若いインドネシア人から日本語で「日本の人ですか」と言葉をかけられた。驚いて「そうです」と答えて「お国はどちらですか」と質問すると、首をかしげている。今度は英語で「フイッチ・カウントリー、アー、ユー、フロム?」と質問するとやっと分かったようで「すいません、わたしのへたの日本語」と答えてくれた。どうやら日本語を勉強している学生さんのようだった。そしてインドネシアから来ていると教えてくれた。
 朝食を済ますと、キャンティーンの外にあって日本のJRの駅にあるキオスクのような売店でミネラル・ウォータを一本買って部屋に戻った。ミネラル・ウォータのボトルには十三ルピーと書いてあったり、十八ルピーと書いてあったりする。しかし、売店の壁には九ルピーと書いてあったので、九ルピーを支払った。どれが本当の値段であるか、わかったものではない。
 インドでの買物は万事がこの調子である。アシュラム内では、良心的な商売がなされているから、英語が理解できず、コミュニケーションがうまくとれない人でも途方もない値段で売られることはない。しかし、一歩アシュラムの外に出ると、特に日本人は日本での値段の感覚で買物をするので、現地の人たちから見れば途方もない値段でも、ごくあたり前の値段と思って平気で支払ってしまうようである。
 ミネラル・ウォータのペットボトルを抱えて部屋にもどった。安田さんは目が窪んで額に汗をかいて横になっている。「何か食べ物を買ってきましょうか」と尋ねると、「食欲がないのでいりません。飲みものなら飲めそうです。売店でジュースを買ってきてください」という。私は、ショッピングセンターの売店でジュースを買って部屋にもどった。安田さんは私が戻ると早速栓をあけて水で薄めてそれをごくごくと飲んだ。私も頂いて飲んだ。かなり濃度が高いもので、五倍に薄めてもまだ甘い。その後、私はすぐにベッドに横になって寝てしまった。
  1. 2010/08/21(土) 04:03:47|
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三日目の朝(4)

やがて、空が白んでくると、ホール正面の大きな鐘が打ち鳴らされる。それを合図に全員がオームを唱える。このとき、たしかにホール全体があるエネルギーが満たされる。一体どのようなエネルギーが注がれているのか。
 これは大いなる儀式であると前にのべたが、その儀式の意味は明確に理解できているわけではないが、たぶん、それによって何千人という人たちの感情体(アストラル体)、知性体(メンタル体)(注44)が浄化されるのだろう。
 やがて、録音された音楽がスピーカーから流される。ものういような、悲しげなメロディーであることも、陽気に踊りたくなるようなメロディーのこともある。インドのヴィーナ(注45)とシタール(注46)による演奏であることが多いが、バイオリンとフルートによる西洋の音楽であることもある。様々なメロディーが、そのときの状況に応じて使われるようだ。
 スピーカーから音楽が流されると、人々の頭が一斉に同じ方向に動く。遠くの方で、鮮やかなオレンジ色の人影が動くと、その動いた方向に、並んで座っている人たちの頭の動きが波のようにホールに伝わっていく。人々は一瞬たりとも目を放すことはない。インドの人たちはほとんど立ち上がらんばかりである。それをセバの人たちが「サイラム」と言って制する。彼らはサイババのオーラ(注47)の輝きを見ているのか、しきりに両手を目の前に差し出して、サイババから放射されている光を自分の頭頂センターへと入れようと手を扇ぐように動かしている。光は手であおいで動かせるようなものではないのだが。
 飯島先生は合掌したままである。私も真似をして合掌してサイババの方をじっと見るが、いかんせん私の目は近視と遠視と乱視が入り乱れているので、お姿をはっきりとは見ることができない。サイババはホール左翼の、つまりホールの東側部分の女性たちの前を通ると、昨日のように男性陣の方に近づいてくることなく、そのままスーッとインタビュールームに入ってしまわれた。
 しばらくすると、スピーカーの音楽がぴたりとやんでしまった。どこからともなくタメイキがもれていた。やがて、人々は席を立った。飯島先生はしばらく座ったままじっとしておられる。
 出口に向かってぞろぞろと歩いているとき、山内さんとパウロさんの、ややがっかりした表情にでくわした。長い間待って、サイババの姿を目にするのはほんの一瞬である。無言のまま、私たちはホールを出た。
 少年を預かっていたが、少年は迷うこともなく、自信ありげに行動していたので、私たちは安心して、彼を一人で帰らせることにした。
  1. 2010/08/20(金) 02:36:58|
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三日目の朝(3)

正面の建物に目を移すと、壁はパステルカラーの薄いブルーとピンク色に塗られている。淡いオレンジ色の部分もある。全体のイメージとしては、ディズニーランドに、リトル・ワールドというアトラクションがあるが、あの中にでてくる王宮に似ている。テラス風に作られたマンディールの二階部分には、お城の壁の山形が並べられている。側面の帯状の部分には象の絵がいくつも並んでいる。ピンク色と淡いオレンジ色と薄いブルーの壁が交互に並んで乙女心をくすぐりそうな配色である。皮肉めいた言い方をすれば、日本のキィティちゃんというキャラクターグッズを集めていそうな少女たちに受けることまちがいなしのデザインである。しかし、マンディール正面の壇上には、恐らくは大理石製であろう、大きな椅子が置かれ、その前の部分は扇形状になだらかな斜面の広場が作られていて、その下に私たちの座っているホールの床が広がっている。中央部分は四頭の金色のライオンが取り囲んでいる。誰かが、日本の狛犬のようなものだといっていた。私が「純金で作られているとしたら、何億ぐらいの価値があるのでしょう?」というと、「恐らくは、単なる金メッキだよ」という返事だった。
 最初はいかにも幼稚ぽいと感じたデザインだったが、観察しているうちに、これはこのホールに集まってくる人たちに安心感、暖かさを感じさせる巧みなデザインであると気付いた。柱の途中、下から五メートルぐらいの位置にバラの蕾を思わせるような脹らみが設けてある。私はホールにいる間中、バラの香りをかいでいた。そのせいか、その脹らみはバラの花をかたどったものだと思った。
 後から聞くことになるが、安藤さんは、それは蓮の花の蕾をかたどったものだと言っていた。バラの香りのことであるが、この香りはどうやら私だけが嗅いでいたようである。
 およそ十メートル間隔ぐらいで、セバと呼ばれる人たちが立っていて、彼らは背中にブルーのスカーフをつけている。ときどき座り疲れて立ち上がってしまう人、席を乱して広い範囲を自分の縄張りにしているような人に、「サイラム」と叫んで、腰を降ろして整列するように、促している。この場合の「サイラム」は英語の「プリーズ」と同じ意味である。「サイラム」という言葉は、どうやら「お早うございます」とも「こんばんわ」とも「おやすみなさい」とも「御苦労様です」とも「失礼します」とも、ありとあらゆる意味を持つことができそうである。
 何千人という人たちが彼らの指示によって、整列して時間をすごす。毎日毎日決まった時刻に、ほとんど全ての人が白いクルタパジャマを着て整列し、そして座って待つ。ときどき、色ものの衣服を着た人もみかけるが、彼らはセバの人たちによって、ホールから出るように促されるようである。中には、セバの人が言っている言葉が理解できないふりを決め込んで、そのまま居座る外国からきている人もいる。着衣からして統一をよぎなくされる。そして全員で一斉にオームを唱える。これは、大いなる儀式(注41)である。
 座って待つこと一時間ほど。やがて、五十人前後の男性の集団がヒンズー語でサイガヤトリー(注42)を高らかに輪唱しながら行進してホールを横切っていく。透明感のある彼らの声がホール全体に響きわたり、どことなく淀んでいたホールの空気がピーンと張り詰めた感じになる。マンディールからは女性たちのスプラバータム(注43)というバジャン(注34参照)がタンバリンの音とともに聞こえてくる。それはサイババを眠りから起こす祈りだと聞いた。
  1. 2010/08/19(木) 02:15:52|
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三日目の早朝

 夢見心地で、草履を脱ぎ捨てると、広場へと急いだ。すでに何百人もの人が並んでいる。山内さんにしたがって、例のごとく並んで座った。広場全体にビャクダンとジャスミンが混じったような香りが漂っている。アシュラムの入口にあるガネーシャ神像の前に常に炊かれているお香の煙が街灯の光りを受けて白く輝いている。一時間以上、ただ周囲を見回すばかりで何もせずにコンクリートの上に座っていると、やがて先頭の人が籤をひき、一番を引いた列の人たちから「うおっ」という歓声の声があがって、その人たちが立ち上がった。
 隣の列の人たちが次々に立ち上がってはダルシャン会場へと歩を進めていくのに、私たちの列は一向に、順番がまわってこない。ほとんど最後に近い籤をひいたようだった。ホールではずっと後ろの方で、サイババの姿が見えるとしても、小さな豆粒ぐらいの大きさにしか見えない位置であった。その位置に座って、私はサイババが姿を現すまで、意識して観察することにした。天井を仰ぐと、十メートルぐらいの高さの天井は、二メートル四方ぐらいの升状に仕切られていて、その底はフカミドリ色の背景に、大きな蓮の花を図案化したものが描かれている。その横の部分には曲線で描かれた東アジア特有の唐草模様が描かれている。その升状のものが六つ、つながっている所と九つつながっている所があって、太さ八十センチぐらいの円柱が縦に八本並んでいる。ホールの縦の長さは百メートルぐらいあるだろうか。あのニメートル四方の升の下に十六人はいるとして、単純計算で升の数が縦三十三×横三十三の千八十九個として、十六×三十三×三十三=一万七千四百人ぐらい収容できる広さだと計算した。
 しかし、いくらなんでもそれだけの人が今集まっているとは考えられない。大体の計算で、一万ぐらいの人が集まっていると私は推測した。大雑把な計算である。機会があれば、升の数も正確に数えて、整列した人たちによって作られる一ブロックのおおよその人数を数えてみたいと考えていた。世界中から、人々が集まってくる。この広いホールでさえ今は狭く、中に入れずに溢れている。一体サイババのパワーはどんなパワーなのだろう。 
  1. 2010/08/18(水) 03:12:47|
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三日目の朝

早朝二時三十分頃に目を覚まして、用意をしかかると、隣のベッドに寝ている安田さんの様子がおかしい。「今日のダルシャンは休みます」という。近寄って額に手を当てると少し熱があるようだ。「分かりました。一人で行ってきますから、安田さんは休んでいてください」と言って、部屋を出た。岡山から母子三人で来ていた人がいた。五才ぐらいの男の子と小学四、五年生ぐらいの男の子二人を連れた若いお母さんである。そのお母さんが、昨日の夕方、私たちの部屋を尋ねてきて、上の男の子は女性グループで連れて行けないので、私たちの男性グループの仲間に入れていっしょに連れていってください、という。では、明日の朝三時半に、N9棟とN8棟の間の三叉路付近に来てください、と返事をしておいた。
 集合場所に来てみると、男の子はすでに待っていた。あまり多くを語らない、静かな男の子だった。安田さんはダルシャンを欠席されることを告げると、全員が揃っているということで、直ちに列を作って並ぶ、あのガネーシャ神像(注40)を祭ってある広場へと向かった。アシュラム内にはいたるところに、アカシャの一種と思われる喬木が植えられている。頭上には、その木のたんぽぽの穂のような薄黄の花が覆っている。インディアン・キャンティーンの横を通るとき、そのふくいくたる芳香に出迎えら、そして優しく私たちを包む。なんてすがすがしい朝なのだろう。人々が三々五々広場に向かって足早に歩いている。誰もが同じようなクッションを脇に抱えている。
 壁にうすいピンク色のペンキが塗ってあって、イースト№○と書かれた、学校の宿舎の前までくると、前を行く何人もの人々が、頭上の街灯の明かりをさえぎって、黒いシルエットとなっている。足元のコンクリートにはいくつもの人の影が次々と交差していく。突然、私は学生時代に幾度となく聞いていた、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」のメロディーが私の脳裏を過った。そして、その中の歌詞が思い出された。「ハロー、ダークネス、マイ・オールド・フレンド、アイブ、カムトゥ、トゥ、トーク・ウィズユー、アゲイン・・・」
  
  1. 2010/08/17(火) 03:03:40|
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二日目の夕方まで

 ホールの中は、満員ではなく、通路から二十列ほどの所に座ることができた。前から四列目ほどの所に背中にカーキ色のレインボー・ツアーズのスカーフを付けた山内さんたちを見つけることができた。ホール中央の壇上で、サイババが椅子に腰掛けている。サイババの前には例外なく白いクルタパジャマをきた三十人程の学生たちが並んで座っている。その中の一人が立ち上がって、私には分からない言葉で大声を出して何かを朗読している。どうやら詩のようだ。学生たちが次々と交代して朗読する。後で山内さんが教えてくださったが、それはサイババの前で詩を朗読するという学生たちに課せられたテストだった。
 ホールから出る頃は、夕刻の六時すぎだったと思う。私は一人で部屋に戻ろうとした。仲間の人たちと今朝通ったコースとは異なるコースを私は歩いていた。すでに夕闇に包まれていた。どんどん進むと、ウエスト№4と書いてある建物の脇を歩いていた。私たちの部屋のある建物はノース(北)であるから、ここから右の方に行けばいいだろう、と考えて右に曲がった。しかし、その通路は全く見慣れないものだった。どうやら道に迷ったらしい。しかたなしに、元きた道を引き返し、見慣れた場所まできた。
 私たちのノース棟の建物が並ぶ、東西に走る並木道を歩いていると、赤茶けたサリーに身を包んだ老婆が椰子の葉をむしっていた。大きな椰子の大枝が枯れて地面に落ちて、道路際に捨ててあったものらしい。その大枝から出ている細い枝葉をむしりとって束ねている。あんな葉を一つひとつていねいにむしりとって何をするのだろう、とその時は疑問に思って通りすぎた。後で分かったが、椰子の葉の小枝を束ねて、ほうきを作るのだった。ダルシャン・ホールの床を腰の曲がった老婆が絶えず掃いている。それは椰子の葉を束ねてつくったほうきであった。あの赤いサリーの老婆は、私たち日本人が物の豊かさの中で忘れてしまった原点をしっかりと身につけているのだ、と思った。
 通路の左側から、石油をもやす臭いがツーンと鼻をつく。見れば、倉庫のような建物の中に、何人ものインドの人たちが雑魚寝している。雑然とした広い倉庫の所々にダンボールで仕切りがつくってあって、物干しロープにサリーやパジャマがかけてある。ある人たちは、石油コンロで煮炊きをして夕食の準備をしているようだった。興味がそそられたが、私たちの部屋の様子とはあまりに差がありすぎて、見てはいけないものを見ているような気がする。そして心のどこかにチクチクするものを感じた。彼らが私の方を見る目は、異邦人を見る目付きである。
 N9棟の入口には、軍人の服装をした人、二、三人の人と、背中にブルーのスカーフを付けた人が、通常は一人、時には数人腰掛けている。この人たちは、怪しい人が建物に入らないように、見張りをする人たちである。私は言いなれない「サイラム」という言葉を小さい声で言いながら、合掌してこれらの人たちに挨拶した。彼らも「サイラム」という言葉で応えてくれた。

  1. 2010/08/16(月) 02:52:18|
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二日目の昼のダルシャンから夕方まで

パウロさんはこんな話しをしてくださった。ある人がインタビュールームでスワミと会っている間に、お国で家族の方が危篤状態となっていることが電報で知らされた。スワミはある人に「お国に帰りたいですか」とお尋ねになり、会見者が「帰りたいです」と答えると、スワミはインタビュールームの後ろの壁に指でドアを描いた。すると、その描いた部分が本当の扉となり、その扉を開けて向こう側に行くと、そこが自宅の居間だった、という、マンガのドラエモンの話しに出てきそうな話しであった。
 このような話しは、私も別のルートから一つ聞いていた。ある航空会社のジャンボが突然エンジントラブルを起こして、エンジンが止まってしまった。パイロットの一人があわてて、一人のスチワーデスの所にやってきて、「あなたはサイババの信者だから、サイババにお願いして、何とかしてほしい」といった。スチワーデスは真剣にサイババにお祈りした。するとジャンボのエンジンは再び始動しはじめて、何百人の命が助かった。そのとき、大空の雲がサイババの姿に変わり、乗客全員がその奇跡がスワミによって成されたことを知った。
 私がこの話しをすると、飯島先生はそんな話しはいくらでもありますよ、といわんばかりに「燃料切れになった車に、サイババ様にお願いして水を入れたら、その車が動き出した」という話しをされた。
 そんな会話がつきず、長い時間を食堂ですごした。
 部屋に戻ると、すぐに寝てしまった。目覚めたのは、三時近くだった。朝の出来事を家内に報告しようと思い立って、婦人たちの部屋がある同じ建物の三階におりた。ドアの前まで行って見ると、鍵がかけられていて、みな揃って買物にでも出掛けたようである。ひきかえしてくる途中、飯島さんのお嬢さんが廊下の端に見えた。私を見つけると、「ババ様が手紙を受け取ってくださったそうですね。父から聞きました。おめでとうございます」と声をかけてくださった。近づいて、その時の状況を話していると、お嬢さんは、「初めてのダルシャンでしょう。本当に、よかったですね」と。「感激のあまり涙を流さなかったのですか」と、敢えて口にはされなかったが、その言葉のはしばしに、私がどのような気持ちで声をかけられたかを感知されているようなニュアンスが滲みでている。実際、私はコントロールしなければ、不覚をとって涙を落とすところであった。
 部屋に戻って時計を見ると、すでに三時半を過ぎていた。もう午後のダルシャンには間に合わないだろう。それでも私はすぐに着替えて、一人ホールへ出掛けていった。
  1. 2010/08/15(日) 04:43:17|
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二日目の朝

ダルシャン・ホールの帰り道、すでに朝食の時間になっていたので、飯島先生、安田さん、パウロさん、山内さんとともに西洋キャンティーンへ行った。話題はもっぱら私が最初のダルシャンでサイババから声をかけていただいて、ビブィーティをいただいたことに対しての、皆さんからの祝福の言葉だった。飯島先生は「サイババ様は、あなたの過去世のことから現在のこと、未来のことまですべて御存知です」とおっしゃる。山内さんは、私が最初のダルシャンでスワミからビブーティを頂いたことに、驚きの気持ちを抱いて、「一体、すずきさん、何があるの?」としきりに尋ねる。私は「一言では説明できませんが、スワミは息子を立ち直らせてくださったのです。今回の旅は、そのお礼の意味もあるのです」とだけ、答えた。パウロさんはしきりに「素晴らしい」を連発し、彼の知人に帰りがけ、スワミが「また会いましょう」と告げて、その人が国に戻ってタクシーに乗っていたら、突然隣の座席に座っているのを発見した、という話しをしてくださった。私の場合も、いつ何時スワミと再会できるようになるかわからないですよ、という意味合いだった。
 私は、昨日の夕食の時に欲張ってたくさん取ったので、今回はチャパティ一枚と野菜の煮込み一杯だけにした。ほんの四ルピーであった。飯島先生とパウロさんが、サイババの奇跡について、驚くべき話しをしてくださった。
 ある家族がアシュラムで生活していた。そのうち一人が重い病気になって、死にかかっていた。家族がスワミの治療をお願いにいくと、スワミは「大丈夫です」というばかりで、なかなか見にきてくださらなかった。とうとう、病人は死んでしまったのではないかと思われた。再びスワミに訴えにいくと、スワミはそれではと見にきてくださった。しかし、病人はすでに死んでいた。スワミは家族全員を部屋の外にだし、一人部屋に残って何事かをされて、その後に家族の人たちを部屋に招き入れた。すると、病気で死んだはずの人がベッドの上に座っていた。まもなく、家族全員そろって、アシュラムを去り、家に戻ることができた。ところが、家に到着すると、死から回復していた人が今度は本当に死んでしまった。後から分かったことであるが、死体としてアシュラムを出ることは、家族にとってたいへんなことであるから、家に帰るまでは生きた人に戻したということである。寿命を引き延ばすことは、この人の場合には出来なかった。
  1. 2010/08/14(土) 03:57:14|
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初めてのダルシャン(5)

私が、ビブーティをその包装紙に包んでいる間に、床に落ちたビブーティは、後ろに座っていたインドの人たちが、次々に手を伸ばして、指先につけて口に運んでいた。私には、このビブーティの持つ意味が、今一つよくつかめていなかったが、貴重なものであることが、周囲の人々の態度から察せられる。包装紙に包んだ後にも両手の挙にビブーティが残っていたのだが、私がそれを眺めていると、背後から四、五本の手がのびてきて、人差し指の指先につけて、数秒後には、私の挙はきれいになっていた。
 サイババは、通路の西端にたっしていて、柵の外側の、ホールに入ることができなかった人々に右手をあげて、祝福されているところだった。自分の手ばかりを見ている私の姿を見て、飯島先生が、
 「サイババ様が見える限りは、そのお姿を見ていなくてはいけません。サイババ様は後ろにも目がついています」。
と教えてくださった。
 やがて、サイババがマンディールに入られて、姿が見えなくなると、音楽がピタリとやんだ。それを合図に人々が次々に立ち上がってホールの外に向かって歩いていく。
 「パウロさんが、私の方を見て、
 「素晴らしい。スワミ(注39)が後で何をいっていたかわかった?『いつまで、いますか?』って。ぼくが十五日までと言ってしまったけれど、ほんとうは十四日までだった。『又、お会いしましょう』って」。
彼自身もすこし上気した表情だった。
 飯島先生が、
 「先頭の人が一番籤を引いたときに、今日はなにかあると思ったのですが、サイババ様は、あなたに声をかけるためだったのですね」と。
 山内さんは、私の方をうらやましそうに見て、
 「すずきさん、何があるの?」と。
 一言では伝えることができない事情があったので、私は、
 「息子のことで、御世話になりましたので、お礼の言葉を伝えたかったのです」。
 とだけ応えた。パウロさんは、
 「そのビブーティ、奥さんのところに持っていってあげるの?」
 と言いつつ、山内さんの方に顔を向けて、
 「このビブーティは、スワミが奥さんのためとか、他の誰かのためにくれたのではなく、すずきさん本人のためにくださったのだから、私ならその場で、全部口に入れちゃうよ」。
と言って、手の平を口に持っていって、一口に飲んでしまうジェスチャアをした。
 そんな会話をしながらホールの外に向かって足を運んでいたが、私の心の中では、過去十数年の間に私の家族の中で起こった出来事、荒れ狂った息子が立ち直って独立して行くまでの過程が、走馬燈のように駆け巡っていた。そして、その間、サイババが見えざる世界からジッとごらんになっていたのだと確信を得て、胸の底の方から込み上げてくるものを必死で抑えていた。
 息子が独立していったとき、私は彼が何年間も家に閉じ籠もっていた後、人格が完全に変化して、通常の人並みに生活が送れるようになったことは、自然にそうなったのではなく、見えざる手による援助がなければ、果たされなかったと理解していた。
 「サイババに息子さんのことをお願いしておきます」。
というBK氏の言葉の意味を次第に認識できるようになった。
 サイババに言葉をかけていただいた時に、どうしてもっと冷静に受け応えできなかったのかと、悔やまれてならなかった。こんなことでは、まだまだだ。どんな状況におかれても、冷静に対処できる平静さが身についていなければならないのに、と少し落胆する気持ちとサイババに対する感謝の気持ちから、ともすると突き上げるような感情の波と戦いつつ、一方では穏やかな満足感に包まれて、ホールを出た。
  1. 2010/08/13(金) 03:02:40|
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初めてのダルシャン(4)

サイババの歩いている姿は、老人がとぼとぼと歩くような姿ではなく、直立歩行を身につけたばかりの幼児が、たどたどしく歩くような感じに、私には見えた。ゆっくりと歩いてくる。手紙を手渡そうと人々が殺到するが、その度にセバ(注37)と呼ばれる、背に青い三角布をつけた人々によって制されて、人々は整列を保っている。サイババはそのうちの、一部の人々の手紙を受け取られる。手紙の内容はすでにご存知で、その内容が、受け入れられるものだけが、サイババの手にとられるのだという。しかし、たとえ受け取られなくても、それに対する返事は、なんらかの形で、その人に伝えられると聞いていた。それは、その人が出くわす日常の出来事がメッセージの形になるのかもしれない。
 だんだんとこちらの方に近づいてこられる。ホール中央のアーケード下の通路にこられたとき、私の手紙も受け取ってくださるに違いないと、確信した。というよりは、手紙をすぐに手渡すことができる位置にサイババは、近寄ってくださった。とにかく夢中で、もっていた手紙を渡すことができた。
 中央の通路から、五、六人隔てて、私は北側の最前列に座っていたのだが、スーと近づいてこられて、私をジッと見られて、
 「日本から来ましたか」。
 と英語で声をかけられた。私は、
 「イエス」。
 とはっきりと答えたきり、心の準備ができていなかったせいか、上気してしまった。その後、サイババが何をおっしゃっているのかさっぱりわからなくなってしまった。同じグループのパウロさんが、英語で、
 「フィフティーンス」。
 と応えているのが、聞こえた。パウロさんは、日本に帰化したフランス人ジャーナリストで、日本には十数年住んでいて、日本語はペラペラである。もちろん、英語も理解する。彼はやや小柄で、顔のわりに目が大きく、映画俳優の誰かに似ている感じがする。誰であるか思い出すことができない。いつも山内さんといっしょにいる。二人は行動がテキパキとしている点、判断がすばやい点などがよく似ている。彼の応えの意味を理解しようとしていると、サイババが右手をくるくると回し始めたから、あっビブーティ(注38)がいただけるのだと思って、両手でボールの形を作って受けようとした。私が手を出すことが遅れたので、ビブーティが少し床にこぼれた。サイババの後についてくる、おつきの少年が、私の手の中にビブーティを包むための五センチ平方ぐらいの白い包装紙をソット落としていってくれた。両手の平に落とされたそのビブーティは、小匙一杯ぐらいの量であったろうか。私が見慣れていたいつもの、薄い灰色のものとは違って、淡いオレンジ色を帯びていた。少しなめてみると、普段のビブーティがお香の香りがするのに対して、無味無臭である。
  1. 2010/08/12(木) 04:48:21|
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初めてのダルシャン(3)

にわかには、信じがたいことで、私はフト天井を見上げて、ときどき飛び交っているハトたちが、フンを落とすのだが、あのフンが誰の頭に落ちるのか、サイババはそんなことまで御存知なのかな、と考えていた。
 ホールの大理石の床は、私たちが座って待っている間は、赤いサリーをまとった、腰の曲がった老婆が絶えずほうきではいている。砂ぼこり一つ落ちていない、その床の上に、持参したクッションを敷いて安楽座法(注32)で座って待つこと、二時間弱。その間には、五十人ぐらいの集団の人々が、横五人、縦十列ぐらいに隊列を組んで、ホール正門の左側の入口から、なんかのマントラム(注33)を輪唱しながら行進していく。イスラム教のコーランの咏唱を思い出させる朗々たる発声である。その人たちが、ホールを横切って、どこかに姿を消すと、今度は、ホールを取り囲んでいる周囲の道路を、一群の女性たちが、タンバリンと太鼓を叩いて現地語によるバジャン(注34)を歌いながら、行進していく。周囲の道路は一メートルほどホールの床よりも低く、ホール際の壁は腰ぐらいの高さがあるので、彼女たちの姿は、目にすることはできない。タンバリンの音楽と歌声だけが聞こえてくる。
 ホール正面の祈りの部屋、マンディール(注35)では、女性たちのもの静かな祈りのバジャンが、ずっと持続している。その声が途絶え、しばしの静寂が訪れる。やがて空が白んで来て、夜が明けようとする頃、ホール正面の鐘がカーン、カーン、カーン、、、と鳴らされる。
 その鐘がなり終わると、ホールに居る人たち全員が一斉に
 「オーム、オーム、オーム、、、」。
 と唱える。一斉とはいうものの、少しずつ、ずれが生じていて、遠いところから聞こえてくる低い声のオーム(注36)の響きを聞きつけると、それに合わせるようにして、私たちもオームを唱える。自然にいくつかの輪唱方式となって、オームがホール全体に響きわたる。それもやんで、一瞬静寂が訪れる。
 突然、スピーカーから、録音された音楽が流される。その音楽が合図であった。人々の頭が、一斉にある方向に向き、その方向を見ると、鮮やかなオレンジ色のローブに身を包んだサイババの小さな姿が目に入ってきた。サイババが移動するたびに、ちょうど海の波頭のように、人々の頭が脈動する。頭を動かさずにいると、サイババが柱の陰に入ってしまうときには、そのときの動作を見落としてしまうことになる。飯島先生は、そんな私を見て
 「サイババ様から目を離してはいけません」
 と教えてくださった。
  1. 2010/08/11(水) 02:33:04|
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初めてのダルシャン(2)

ウエスト棟の雨樋の根本にゴム草履をぬぎすてて、ホールへ入場する順番を決めるために待機する広場に急ぐ。ホールには、裸足で入場しなければならない。その広場には、コンクリートがうってある。既に四十列ぐらい並んでいて、一列の人数は、最終的には八十人から百人ぐらいになるであろうが、私たちはもっとも人数の少なさそうな列の最後尾についた。しかし、飯島先生のお話しでは、早く来たからといって、最初にホールに入れるわけではなく、ここで並んで待機していて、先頭の人がくじをひき、一番くじをひいた列の人たちから順に、ホールに入場することができる。
 そこに座って待つこと一時間ぐらいであろうか、隣に座っていたカナダからきたグループの人たちの中には、たえず足の位置を変えたり、あぐらにしたり、体操座りになって膝を抱えたりしている人も見受けられた。
 そのとき、先頭の方でざわめきが起こり、私たちが並ぶ列の前方に座っていた人たちが立ち上がった。私のすぐ前に座っていた飯島先生が、後ろをふりかえって私を見て、
 「一番籤を引いてくださったようだ」。
 何かあるぞという顔で、合図してくださった。
 ダルシャン・ホールは、正確なところは分からないが、広さは一万平方メートルくらいであろうか。ほぼ正方形をしたホール全体は、太さ八十センチぐらい、長さ十メートルぐらいの円柱が、十メートルから二十メートルの間隔で、縦八本と横九本(?)で並んで、天井を支えている。ホールは腰までの壁で外側と隔てられていて、壁の上に、白いペンキを塗った鉄製の柵がのっていて、ホールの床は外の道路よりも一メートル位高くなっている。床は黒い大理石が敷き詰められている。入口で足や体の他の部分に凶器となりえるようなものを隠し持っていないか、触手による身体検査を受けた後、サイババが通る通路に沿って入場した順番に、前列から並んでいく。
 日本から来た私たちのグループは、中央にある幅二十メートルほどのメイン通路とサイババのお住みになっている東側の家から、まっすぐに西にのびて、ホールを横切っている東西の通路による交差点の、南西の角の位置に座ることができた。ここからは、サイババが東側の自宅から出られると、すぐにその姿を目撃することができる。柱が死角を作ることもない。そのような幸運とも言える位置に陣取ることができた意味が、私にはよく分かっていなかった。
 飯島先生が、例の低い声で私に説明して下さった。
 「先頭の方が、一番籤を引いたのは、偶然ではありません。サイババ様が操作されるのです。その列に私たちがいるということは、何かあるということです。このアシュラム内の出来事は、すべてサイババ様は御存知で、様々な出来事もサイババ様によって意図的に引き起こされるのです」。
  1. 2010/08/10(火) 02:34:22|
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初めてのダルシャン(1)

三時三十分の集合時間に合わせて、二時五十分頃に目をさました。懐中電灯を点灯して、その明かりの中で、クルタパジャマに着替え、洗顔と歯磨きをした。安田さんも自分の懐中電灯の明かりで、身支度をしている。
 初めてのことなので、危うくクッションを忘れるところだった。これがないと、大変こまるらしいことが、周囲のいる人たち全員が、例外なく、クッションを大事そうに抱えていることから、推察できる。中には一枚の単純なクッションではなく、縦部分と横部分の二枚のクッションを斜めのベルトでつないで、腰の部分をもたれかけることができるように工夫したものを持っている人もいた。これは、西洋の人たちにとっては、非常にありがたいものである。
 日本人は、あぐらをかく姿勢で座ることは、平気であるが、西洋の人たちは、椅子に腰掛けることが習慣なので、あぐらをかく姿勢はたぶん苦痛である。
 あぐらにかくことに慣れているとはいえ、長時間同じ姿勢で座り続けることは、やはりつらいものがある。プッタパルティ最後の日、私もその二枚のクッションをベルトでつないだものを使ってみたことがある。縦の支えと下のクッションを斜めにつないだベルト部分が、あぐらをかいた大腿部にあたって座りにくいが、腰を支えてくれる分、体を真っ直ぐにしておくのが楽である。しかし、私は、単純な一枚のクッションをとりたい。この一枚のクッションも、持ち運びに便利なように、中央から二つに折ることができ、二つに重ねると横についている把手部分も重なる。重さは、西洋人向けのものよりもずっと軽い。
 昨日到着した時に待機していた、N9の建物とN8の建物の間、三叉路の辺りに、日本から来た私たちグループの男性陣は、集まった。山内さんにしたがってダルシャン・ホールの方に移動する。
 人の流れができていて、大勢の人たちが、移動を開始している。大きな街灯が、方々に立っていて、都会並みに明るく照らされている。インディアン・キャンティーンの前を通るとき、頭上を覆う大木に咲く花の香りが、仄かに漂っている。その香りが、昼間の雑踏の中では、気づくことができなかったが、夜明け前の、少し湿気を含む冷気の中を伝わり、なんともいえない新鮮な気持ちにさせてくれる。この同じ種類の、喬木がアシュラムの方々に見られる。
 幹の太さは、六十センチから、八十センチほどで、杉や檜のようにまっすぐにのびるのではなく、楠の木のように、地上二、三メートルのところで、すぐに枝分かれして、広い範囲に葉むらを広げて、大きなパラソルのように、日陰を作ってくれる。
  1. 2010/08/09(月) 03:19:26|
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サイババへの手紙

私は、アシュラム滞在中に、何とか手紙をサイババに手渡すことができればいい、と気軽な考えでいたので、日本にいるときに書いて準備してきたわけではない。消灯間近で、疲れていたので、ベッドに横になって、そのまま寝てしまおうとしていたが、何となく気になってベッドから起き上がって、手紙を書き始めた。
 最初は英語で書こうと思ったが、どうしても微妙なニュアンスを伝えることができないし、安藤さんからは、
 「ババ様は、日本語でも大丈夫。神様だから、どんな言葉も理解できるの」。
 と聞いていたので、日本語で書くことにした。
 私が、BK氏のお仕事を手伝っていること、その仕事に夢中になっている内に、家庭のことをほったらかしにしていたために、家族とのコミュニケーションがとれなくなっていったこと、息子が登校拒否をするようになって、ほとんど家庭崩壊しかかったこと、そのことをBK氏に相談した際に、BK氏が一言、
 「息子さんのことは、サイババが面倒を見てくださるそうです」。
 とおっしゃってくださったことが、耳に残っていたこと、何年も過ぎた後、息子が奇跡的に立ち直って独立して行ったこと、一つひとつをとりあげて書いて行けば恐らくノート一冊ぐらいの長い話しになる出来事の経緯(いきさつ)を、短く便箋一枚と半分くらいに纏めた。この経緯について、後で書くつもりである。
 書いている間に、これまでの経緯が十倍速ぐらいの早送りのビデオを見るように思い出された。
 余りにも短く書きすぎて、どうかとも思ったが、今更書き直すだけの時間は無かった。封筒に便箋を折り畳んで入れ、時計を見ると既に十時を回っていた。消灯時間はとっくに過ぎている。安田さんの就寝を妨げてしまった。安田さんは
 「気にしなくていいです」。
 と言ってくださった。明日の朝の集合時間に遅れないように、すぐにベッドに横になった。

  1. 2010/08/08(日) 03:42:02|
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プッタパルティの最初の夜

意識不明の状態で病院に担ぎこまれたこと。居場所がわかるはずのない娘さんにそれが奇蹟的に連絡されたこと。サイ・オーガニゼーション(注30)の由比さんが東京センターのみなさんに祈って下さるようにお願いしたこと。先生が、最初にプッタパルティを訪れたときは、下痢をして、食事が喉を通らなかったこと。お粥をすすってダルシャンに出て、そのときにサイババのおみあしに触れたこと。それは今では禁止されていて、もうできなくなっていること。
 「イイジマに新しい命を与えた」。
 とサイババが先生におっしゃったこと。サイババは娘さんにビジョンをお示しになったこと。由比さんにとても御世話になったことなどが語られた。
 夕食を多くとりすぎたようだ。少しお腹が苦しい。部屋に戻ってもう一度シャワーを浴びた。シャワーを浴びている間に、家内が新しいクルタパジャマを届けてくれた。アシュラムのショッピングセンターは、夕方には男性しか入れないのに、どうしたのだろう、と思った。
 シャワーから出てすぐに家内の部屋に行き、パジャマをどこで手にいれたか尋ねた。女性たちはアシュラムの外に買物に出掛けたのだった。アシュラムの中と外では、ものの値段が全く違う。
 外ではものの値段があってないようなもので、特に買物客が日本人となると、通常の値段の二倍から三倍、ときには五倍以上の値段をふっかけてくる。
 「いくらだったの」。
 ちょっと心配になって家内に聞いた。
 「百十五ルピー(注31)だったわ」。
 私がアシュラムのショッピングセンターで買った値段よりも安い。
 「最初は、三百ルピーと言っていたの。安藤さんが『だめ!』といったら、ついに百十五ルピーになったの」。
 「さすがは、安藤さん。インドの買物では、百戦錬磨だね」。
 と私。
 「日本人には、とんでもない値段を言ってくるから、相手が言った値段の大体半分に値切らせるのが常識だそうよ」。
 と太田さんが言う。
 とにかく家内一人では、とてもそんな買物はできないが、女性たちのおかげで、家内もインドでの買物のコツを伝授されたようだった。
 部屋に戻ると、すでに消灯時間の九時間際になっていた。そうだ、サイババへの手紙を書かなくては、と気づいて手紙を書き始めた。安藤さんが手紙セットを私にプレゼントしてくださっていた。私がサイババに手紙を書きたいと、もらしていたのを聞きつけて、覚えていてくださって、その用意をしてくださった。何から何まで、こまごまと心配りをする人である。
  1. 2010/08/07(土) 01:10:00|
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プッタパルティの最初の夜

部屋を見るなり、安田さんが驚きの声をあげる。このような部屋で過ごせるのは、天国の生活に等しいと。確かに、バス旅行の途中で目にした農民たちの住居は、椰子の葉で屋根を葺いただけの家畜小屋と変わらぬものであった。
 安田さんが以前に一人で来た時には、倉庫のような所に何人もの人が雑魚寝をしたということで、ベッドもなかったそうである。後日、そのような建物を目撃することになる。見れば、この部屋にはベッドもあり、その上にクッションのよくきいたマットが敷いてあるし、シーツはきれいである。
 インド人で安田さんと顔見知りの人が、懐かしそうに安田さんに話しかけ、安田さんが「ゴム草履が欲しい」というと、早速、新しくできたショピングセンターに私たちを案内してくれた。
 そのインド人にとっても、新しいショッピングセンターが自慢らしく、私たちを案内する足取りは速く、声は興奮気味である。
 そこで、私は真っ白いクルタパジャマ(注27)を二着購入した。一着あたり百二十五ルピー(注31参照)である。驚くほど安い。一ルピー三円で換算すると、日本円で三百七十五円ということになる。インドにいる間はこの服装一本やりである。他の服をきる必要がない。
 買物が終わると、私たちは何処かの部屋の方式に倣って、はきものは入口で脱いで、部屋には足を拭いて綺麗にしてから入ることにした。これは日本式と言える。外国の人々は室外と室内を区別せず、常に土足のままである。部屋の中に砂ぼこりが持ち込まれるので、我々日本人にはなじめない。私たちはすべすべに磨いたコンクリートの床に雑巾がけをして、砂ぼこりを取り除いた。そして、湯はなく水だけのシャワーを浴びてさっぱりとした。
 夕食は、西洋キャンティーン(注28)でとることにした。二人して、そこに行ってみると、京都から来られた飯島先生といっしょになった。飯島先生の名刺をいただいて驚いてしまった。
 先生は、京都の某有名大学の美術科の名誉教授であり、○○会という美術協会の会長さんである。ずんぐりした体型。歳は七十二歳。仏像の表情に似た穏やかで、ふっくらとした頬が印象的である。飯島先生と安田さんとはすでに何度もアシュラムでいっしょになっている様子で、二人は懐かしそうに話しておられた。
 私の方は、一日中バスにゆられていたのに、昼食はと言えば、インド人のガイドが出してくれた小さなバナナ二本だけで、相当に空腹になっていた。それで、食堂でセバ(奉仕で給仕を行っている人のことをこのように呼ぶ)の人から、手渡されたステンレス製の盆に、あれもこれもと、山盛りの料理をよそってもらった。それでもおよそ三十ルピーである。安田さんと飯島先生は十二、三ルピーぐらいである。私ひとり体が細いのに、食べる量が他の二人の二倍もあった。少々恥ずかしい思いをしていると、
 「初めての人は、多く取りがちになります」。
となぐさめの言葉をかけてくださった。
 飯島先生が、サイババの彫像制作途中に、心筋梗塞で心臓が停止し、六度も倒れ、救急車で病院に運ばれ、その度にサイババに命を助けて頂いたことを話してくださった。安田さんは、先生がサイババの彫像を制作された有名な方であることを知っていた。
 飯島先生の声は低く、そしてゆっくりと語る。魂に響くような声である。第四光線の魂(注29)、と私は心の中で思った。
  1. 2010/08/06(金) 07:03:46|
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プッタパルティへ到着

 宿舎前の芝生を敷き詰めた広場の脇の道路に、バスは停まった。バスを降りると、膝までの腰巻き様の布を巻きつけた肌の黒いポーターたちが群がっている。この人たちは私たちが移動しようとすると、どこからともなくやってきて、我先に荷物を運ぼうとする。
宿舎へ入る手続きの交渉を山内さんがしている間、道路に沿って並んでいるアカシャもどきの木の上でサルたちが鋭い叫び声を出して小競り合いをしていた。 私には、よく見かける何でもない光景のように思われた。
 やがて山内さんが戻って、各人に割り当てられた部屋を発表した。私は東京組みの安田さんと同室になった。
 安田さんは、小太り気味の三十代半ばの、人懐っこい顔をした小学校の非常勤講師をしている人だった。私たちはN9棟のDの十四号室であった。それは四階の北東の角から二番目の部屋だ。エレベーターはなく、階段を昇り降りしなければならない。
  1. 2010/08/05(木) 04:46:19|
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プッタパルティへの道

プッタパルティに近づくと、建物のスタイルが少しずつ変化していく。小さなほったて小屋に近いものが、次第に日本の家屋並みの大きさになり、作りも素人くさいものから、プロの建築家によって建てられたものだとわかる、きちんとしたもの、さらに日本のビルディングのような規模の大きなものに変わっていった。
 「これよりプッタパルティ、サイババのアシュラム」。
 と書かれた、大きな門柱をすぎると、とたんに壁の色彩が鮮やかになり、柵や壁のデザインが洒落たものに変化する。思わず、
 「サイババの感化が及ぶとこんなにも変わるものか」。
 という言葉が出てしまった。
 飯島さんのお嬢さんは、お母様といっしょに私たちのすぐ前の座席に座っている。歳の頃は三十歳前後であろうか。京都のお公家さんを思わせるような気品が漂っている。目がほっそりしていて、口元がいつもにこやかな表情をしている。彼女の一家は、過去世を見ることができるある霊能者を通して、ババ様を知ることができたと私に教えてくれた。その霊能者は、京都ではかなり名の知られた人であったらしい。今はもう亡くなっている。その霊能者に指導を受けていたお嬢さんが、私たちに教えてくださった。
 「あれは、ババ様がお建てになった病院です。あれは学校。これは音楽学校」。
 と言って、次々に目に入ってくる綺麗な建物を指さしてくださった。
 アシュラムの周辺は、人々の流れでごった返し、歩道の上には様々な出店がテントを張っている。人々はのんびりと椅子に腰かけ、何かをするのでもなく、今到着したばかりの私たちを見つめている。子供たちがすぐによってきて、バスの窓越しに何かを売ろうと叫んでいる。しばらく、バスの中で待機していると、山内さんが戻ってきて、バスは門を通ってアシュラムの中に吸い込まれて行った。バスが宿舎に着く前に、ダルシャン・ホールの脇を通った。飯島さんのお嬢さんが
 「ここでダルシャンが行われるのです」
と教えてくださった。
その広大さにびっくりした。
 「昔はもっと小さかったのですが、年々大きくなっています」。
という。
 全世界から人々が集まってくる。
 かつてはインドのごく小さな村に過ぎなかったのが、サイババのダルシャンを受けようと、全世界から人々が集まり、今やインド有数の街になろうとしている。驚くべき変化である。
  1. 2010/08/04(水) 04:44:28|
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プッタパルティへの道

隣の座席にいる家内の様子が変だ。寒さの残っていた日本から、急激に真夏の気候地域に入って、体温を調整する自律神経はあまりに急なことで対応するのに、おおわらわになっているに違いない。そしてインドに入ってバンガロール辺りまで来て、やっと体温調整するための発汗活動のスイッチオンがなされていた。
 ところが、バスの中は冷房が効いていて、これはほとんど再び寒冷地区に逆戻りしたのと同じである。
 家内は冷房の効きすぎた部屋で、自律神経が対応しきれなくて、眩暈を起こして倒れてしまったことが、かつてあった。その時の恐怖が肉体細胞には、おそらくトラウマとして記憶されているに違いない。この暑さの中なのに、家内一人長袖のブラウスを身につけ、その上から風よけのヤッケを頭からスッポリと被っていて、小刻みに体を震わしている。私が、
 「その恰好はどうみても異常だよ。この暑さなのに」。
 というと、
 「私、冷房はダメなの」。
 と小声でいう。
 さほど強烈な冷房ではないが、トラウマを持つ細胞が過度に反応しているに違いない。私がそのことを指摘して、肉体を過去の記憶から解放してやる機会をもつべきだよと言うと、家内も納得しているようだ。
 それから私は右手を家内の背中にあてがい、ちょうど脾臓の上辺りにもっていって、心の中でサイババが太陽に変身して温かい光を送ってくれることを想像しながら、祈りの言葉を心の中で唱え続けた。
 やがて家内は、
 「温かくなったわ」。
 と言った。
 「もう大丈夫?」
 「ええ、大丈夫です」。
 私は手を放しつつ、私の祈りもまんざらではないなと思った。そして、自信という柵を乗り越えて、自分がほとんど自惚れの気持ちになっているのを見過ごした。
 このことは、後日ある出来事によって教えられることになる。
  1. 2010/08/03(火) 03:05:48|
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